歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説・⑦(番外編)~違う視点から見た室町時代~戦国・安土桃山時代


今回は

前回(鎌倉時代)の続き

意外と「知らない時代」をざっくり解説

番外編として、

よくご存じかもしれない時代、

人気の「戦国時代」や「室町時代」を

少しだけ違う視点で書いていきます。

室町時代とは

 

この時代は有名ですが一応・・

室町時代とは、1336年~1338に

足利尊氏が建武式目を制定し

征夷大将軍に任命された事に始まります、

京都の室町に幕府があったので「室町時代」と呼ばれます。

大きな特徴としては直轄領が少なかったため、

財政は米ではなく銭(宋銭)でした。

織田信長に足利義昭が京都から追放される

235~237年の間が、一般的には

室町時代の時代区分となります。

南朝北朝と室町幕府とは

 

室町時代は最初の60年間あたりを

「南北朝時代」その後の時代を

「戦国時代」と区分する事もあります。

その南北朝時代とは・・・。

~鎌倉幕府を倒した(意外と知らない時代をざっくり解説 ⑥ ~「鎌倉時代」参照

「後醍醐天皇」でしたが、その後

その目指した思想が(建武の新政)

古代律令国家を目指すという

まさに時代錯誤の物であったため、

幕府を倒した功労者や実力者たちは、失望し

次々と後醍醐天皇から離反します。

後醍醐天皇はその離反者の追討令を出しますが、

足利尊氏ら離反組は、その追討軍を撃退。

尊氏は後醍醐天皇から三種の神器を没収し、

光明天皇を京都で擁立し建武式目を制定、

これが「北朝」となります。

敗走した後醍醐天皇は吉野の地に逃れ、

当然ながら、その新天皇を認めず、

吉野で新しい朝廷を開きます

これが「南朝」となります。

そして天皇家が分断したまま時代は進み・・、

1380~1390年代頃

3代将軍足利義満(1358~1408)の

有力大名勢の力の削減策の結果として、

室町幕府(北朝側)の力が強まり、

南朝側はその力が大きく衰退します、

そこに目をつけた義満は南北御合体を計画。

その後、南朝の第4代の後亀山天皇が

北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一します。

ちなみに・・現代皇室は「北朝」の一族とされています。

これにより力をつけたさらに室町幕府は、

その結果、九州も支配する事となり、

足利義満は新たに冊封されて「日本国王」となります。

そしてその後、時代はさらに進み1467年頃

当初管領の後継者争いから始まり、

細川勝元と山名宗全の全面勢力争いに発展し、

さらにこれに将軍家の後継者争いも加わるなどの

「応仁の乱」が勃発。

11年の間内乱が続きます。

そしてこの時足利将軍家は二つに分裂し、

応仁の乱で全国に戦闘が飛び火、

結果これ以降、足利将軍の権威は大きく失墜します。

元々室町幕府の方針は守護在京制で、自分の領土には

国主領主(守護)はおらず、

京都(中央)に在住していた形(守護在京制)でしたが、

多くの守護大名が「京都を離れ自分の領土へ在領・在国」するようになります、

そのまま守護在京制は形骸化し、

ゲームなどでも有名な形、

領主が在国した状態が出来上がりまして、

時代は、かの有名な「戦国時代」へ進みます・・。

戦国・安土桃山時代とは

 

「戦国時代」としての時代区分は、

約1573から豊臣秀吉が天下統一を果たした

1590年までの時代を指しますが、

「安土桃山時代」としては

織田信長が京都から足利義昭を追放し

室町幕府が滅亡した

1573から江戸時代の開始までの

1600年頃(1603)までの時代区分となります。

安土は織田信長の居城「安土城」の事を指し

桃山は豊臣秀吉の居城「伏見城」の跡地の事を指します。

なぜ「伏見」が「桃山」なのか、それは

伏見城の跡地に桃の木が植えられた事から

その後にこの地域が

桃山と呼ばれるようになったからのようです。

現在はこの区分を織豊時代などと呼ぶ

呼び方も浸透してきているようです。

室町時代は銭の時代

 

上記にも書きましたが

室町幕府は直轄領が少ないため

その財源は「銭」でした。

土地に課税する「段銭」

家に課税する「棟別銭」

様々な税を、銭で徴収していました。

幕府は直接徴税を行わず

幕府公認の金融業者(酒屋や土倉など)

にそれを請け負わせました。

室町幕府の特徴は流通や経済が莫大な利益を生む事に

着眼していた部分でもあります。

鎌倉時代のモンゴル襲来・元寇の後も、

民間では日本と元(モンゴル)の貿易は続いていて、

日本は主に宋銭や絹織物を求め、元は銅鉱石や硫黄を求めました。

この時代、攻めた攻められた関係の両国ですが、

これには互いに大きなメリットがあったため

民間で行われていたこの貿易は両国が黙認しました。

プライドを捨て利益を追求した

 

また、室町時代日本側に資料には残っていませんが、

「日本は他国に朝貢しない」

(朝貢=中華皇帝に対して周辺諸国が貢物を献上し臣従)

という基本姿勢が崩れたようです。

当時の南朝・後醍醐天皇の皇子

懐良親王が北朝側の室町幕府打倒のため

軍資金を必要としたため、

貿易利益を優先するため、明に朝貢し

明の洪武帝から「日本国王」に封じられた・・と

明側に記録があるからです。

しかしその後、その懐良親王はすぐに室町幕府に倒され、

この時、実際には冊封は行われなかったようです。

しかし、室町幕府の3代将軍

足利義満(1368~1394)はこの朝貢により可能になる

「明貿易」での莫大な利益に目をつけます。

義満は、南北朝を統一させた後

皇后に次ぐ地位、准三后(天皇の外交権を与えられる)

に任ぜられます。そして

博多の商人などを介して改めて明との貿易に臨みます。

結果明貿易と朝貢は当時の中華皇帝に認められ、

日本の朝貢船の入国が可能になり、明貿易が始まります

義満は日本の独立を守るよりも、

プライドを捨て国際規模の莫大な利益を優先したのです。

この時日本に利益や影響をもたらした結果・象徴が

金閣寺などの北山文化となります。

世界と繋がっていく日本

 

しかし他国と違う点は、日本は朝貢したと言っても

あくまでも臣下の礼をとらず、

独自の年号やその国の形式を続けた事から、

この朝貢は利益のための建前であったようです。

その後、応仁の乱、後の時代以降

戦国期に、足利将軍家が衰退し、

この貿易自体は、博多周辺の大内氏や堺の細川氏が

後を継ぎますがこの時、

明の力は、大きく衰退しており、

さらには、大内氏の滅亡により、

この明との貿易は完全に断絶します。

当時、海上貿易を支配していた、

明の力が弱まり明や日本を始めとする

東シナ海周辺の商人達は、

戦国期日本の「無政府状態」という背景もあり、

周辺諸国と「自由」に貿易(密貿易)をするようになります。

日本側の商人も武装し、絹織物や銀などを密輸、

この武装集団は、「後期倭寇」と呼ばれ、

大陸の寧波沖などを本拠地に活動します。

この後期倭寇の活動に、

ポルトガル商人やイエズス会の宣教師が

着目しそして加わっていきます。

ポルトガル商人はこの時、日本の大内氏が保有していた、

莫大な産出量を誇る、石見銀山の存在を知る事となります。

当初、ポルトガル商人は、

後期倭寇の首領の一人、

日本の五島列島との密貿易などで

莫大な利益を上げ、日本通でもある

明の知識人「王直」(王五峰)(?~1560)

などを介し、武器や絹を日本へ輸出し

銀を獲得しようと動きだします。

種子島漂着と鉄砲伝来は必然?

 

1543年・・。

戦国期国内の混乱の中

種子島にポルトガル船が「漂着」します。

この時種子島の領主種子島時尭は、

ポルトガル人と面会、

この時通訳を務めたとされるのが、

後期倭寇の首領、上記「王直」であったとされます。

ちなみにこの時、日本に煙草なども同時に

伝来した説が有力です、その様々な伝来物の中から特に種子島時尭が

鉄砲2丁を2000両(数億円の価値)で買い取ったことは

「鉄砲伝来」として有名な話です。

ここに日本とポルトガル商人の取引の「きっかけ」が生まれます、

その鉄砲は一丁は当初種子島時尭が保有し、

一丁は鍛冶職人である八板金兵衛に渡し、

研究させ分解し細かく徹底的に調べさせて、

それを量産しようと試みます。そして・・

その2年後には、国産の鉄砲1号が制作される事となります。

保有していたもう一丁は、噂を聞いて種子島に駆けつけた、

津田数長という紀州の僧兵の手に渡り、

津田数長もまた、刀鍛冶であった芝辻清右衛門にそれを預け、

これもまた量産に成功します、この鉄砲は

日本各地に物凄い早さで広がっていきます。

しかし、鉄砲大量生産には原料となる資源が必要です。

日本は、原料の硫黄や木炭は豊富ですが、

硝石は資源が少なく外国からの輸入に頼るしかありません。

この後遅れて明にも鉄砲が広がったことから、

周辺国でも硝石の需要が高まり、

明は日本への硝石の輸出を禁止します。

日本の織田信長は、この時硝石を安定的に手に入れるため、

ポルトガル商人から「宣教師の布教」を許すことを条件に、

硝石を輸入する事を決定します。

ポルトガルの勢力圏とされていた日本

 

この当時の国際社会で言えば

日本はポルトガルの勢力圏とされていました

ヨーロッパの先進国は、カトリックの布教活動で、

それぞれの国の信者を集めて内部的に

味方を増やす目的があったようです。

いざその国を征服するときは、

その信者たちを兵隊(仲間)と出来るからです。

「ポルトガルの勢力圏」の理由ですが、

当時カトリック勢力圏同士での争いを避けるため

スペインとポルトガルの間で、

大西洋の真ん中に線を引き西側の新大陸をスペイン

東側のアフリカ・アジアを、

ポルトガルの勢力圏として合意した背景があり(トルデシャリス条約)

それぞれの勢力圏で、独占的に植民地を増やしたり

貿易を独占していました。

スペインとポルトガルは親戚同士みたいな関係ですが、

歴史上で時期によっては日本に

基本ポルトガル船しか来港・登場しない

理由はその為です。

 

また、新大陸の先住民が(アステカやインカなど)

スペイン人によって征服される話も

同じ理由となります。

有名なフランシスコ・ザビエルの

イエズス会アジア布教は、

ポルトガル政府の許可を得て行われています。

当時のアフリカ諸国の奴隷は征服ではなく自国から売られていた

 

奴隷と言えば

征服により植民地とされた国々の人が、

強制的に奴隷とされたイメージがあります。

しかし当時、上記のような宗教布教により、

内部的に信者を増やした結果、

従わない者は異教徒として征服されるような構図がありました。

アフリカで言えば、カトリックへの

宗教改革などにより、黒人の国家(ベナンなど)が自ら、

積極的に自国の「異教徒」などの人々を敵視し、

奴隷狩りを行い、ヨーロッパ諸国に売り払っていました。

自国民を奴隷として売ってしまったら、

自国の労働人口はもちろん激減します。

国としての力は当然大きく低下します。

丸裸となったアフリカ黒人諸国は、結果

ヨーロッパ諸国の植民地とされました。

この当時の歴史や国際社会で多く登場する

黒人奴隷は、征服で生まれたのではなく、そのほとんどは、

黒人の国が自国民を「自分たち」で

「奴隷」として輸出していたのです。

当時九州は外国の植民地化した可能性がある

 

キリシタン大名・・。

戦国時代当時連想するのは九州の大名です

代表的な例で言うと

日本初のキリシタン大名大村純忠(1533~1587)は、

肥前(現長崎・佐賀周辺)の領主でした。

近隣の龍造寺氏が攻め込んでくると、

純忠は、貿易のため誘致していたポルトガル人(商人)に

援軍を求め、これを撃退。これをきっかけに交流が深まり

長崎にカトリック教会を建てます。

純忠は熱心なカトリック信者となり、

また甥の有馬晴信(1567~1612)(後の肥前日野江藩初代藩主)

もカトリック信者となります。

徐々にカトリックの勢力は強まり、純忠は

昔からの神社仏閣や墓をを破壊し教会を乱立。

ついには、領民6万人を強制的にカトリックに改宗させます。

改宗を拒む物・また捕虜などをを奴隷とし、

ポルトガル人に売り払いました。

同じ国の人間を奴隷として売る事は、

上記アフリカの黒人奴隷と同じ構図です。

この流れは九州地方に広がり、

多くのキリシタン大名が生まれます。

当時この事情にいち早く気がついた人物がいます、

かの有名な豊臣秀吉です。

秀吉のキリシタン弾圧や禁教令などは

一部分だけが、着目され論じられますが、

このような背景があり、「禁教」した事も忘れてはなりません。

スペイン・ポルトガルが日本征服を諦めた事情

 

日本の戦国時代後期、世界では

まずアジアではフィリピン、

新大陸ではアステカ・インカなどが

スペインの侵略者たちによって文明を滅ぼされました。

この時、スペイン王は母からポルトガル王位も継承し、

さらに勢力が拡大していきました。

フィリピンで言えば、強制改宗・改名され、

現代もスペイン人風の名前が

フィリピンの人に多いのはこのためです。

フィリピンはスペイン人来航以前の歴史が

根絶しています。

また、ヨーロッパ強国は、貿易はもちろんの事、

滅ぼされた他の国々と同様に、

最終的には、日本や中国も征服する目標がありました、

しかし日本はこの時戦国時代。

国王と呼べる存在(将軍)は権威はすでになく、

アステカなどのように、国王を倒し国が崩壊するような

統一国家ではありませんでした。

そこで日本征服が現状困難と判断され、

内部から切り崩す計画に切り替えます。

九州のキリシタン大名などの出現は

その計画の一旦だったようです。

イエズス会は、日本征服計画をスペイン国王に進言し、

征服そして改宗した戦闘民族の日本人を使って、

さらに中国を征服しようとしていた事は、

イエズス会の書簡などにより

近年明らかになってきています。

しかし、ヨーロッパ強国が日本征服自体を完全に諦める

きっかけとなった人物がいます、当時日本の最高実力者

あの「織田信長」です。

信長は、あらゆる宗教の上に自分がいるとの思想、

すべての宗教を超越し自らを神として崇拝させる・・。

と言ったような構想があり、

日本で一番の実力者・天下人であった信長に、

ヨーロッパ強国の今までのような、

改宗させ~そして内部切り崩し戦略は通用しません。

一度ここで、日本征服計画は大きく停滞します。

当時、信長に安土城で謁見したイエズス会の日本責任者は、

尊敬とともに、信長の危険性などを本国に伝えています。

また後に、本能寺の変で倒れた織田信長の後を継いだ

「豊臣秀吉」が、九州平定時に、

上記キリシタン大名の奴隷売買の実情と、

その背景・計画などに気づき、

バテレン追放令を発令した事により

日本征服計画は頓挫します。

追い詰められたイエズス会は、

宣教師を有馬に集めて、協議した結果、

内部の切り崩しを断念。強行策へと転じ、

マニラ総督にスペイン軍の日本派兵を求めます。

しかしこの時・・・

世界の情勢・勢力図が変わる出来事が起こります。

イギリス征服のため派遣した無敵艦隊が、

壊滅するなどし、(アルマダの海戦)

オランダやイギリスなどに植民地を次々と奪われ

スペイン自体の情勢・国力が悪化します。

スペインには九州平定に20万以上の軍を動員できる

秀吉軍(日本軍)に対抗できる軍隊はもはや動員できず

スペインの日本征服計画はここに完全に失敗となります。

 

このような事情があり、

征服のための貿易、布教のための

都合のいい国際情報ではなく、

正確で客観的な国際情勢を日本人が知る事になるのは、

この後の時代、

イギリス人アダムス(三浦按針)ヤンヨーステン(八重洲)

を外交顧問として迎えた「徳川家康」の

江戸幕府の時代となります・・・。

 

今回はここまでです

気が向いたら続きを書こうと思います

有り難う御座いました。