歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説 ⑥ ~鎌倉時代


今回は

意外と知らない時代をざっくり解説 ⑥ ~「鎌倉時代」となります

鎌倉時代と言えば、

1185頃~1333頃の時代区分のことを指します。

全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国「鎌倉」に所在した

事からこの呼称となります。

本格的な武家政権による統治が行われた時代です。

鎌倉幕府の誕生

 

平安時代末期頃の「源平合戦」の勝利により、

(詳しくは「意外と知らない時代をざっくり解説 ⑤ ~平安時代」参照)

最初の武家政権を築いた平氏が滅びます、

平氏の政権は、貴族と武士が混ざり合った物でした。

鎌倉幕府の大きな特徴としては、

「完全な武家による政権」を目指した事にあります。

まず全国に守護(各国の警備、治安維持の役)を置いて、

京都の朝廷や地方の貴族の「荘園・公領」は据え置きます。

地方支配を強めるために、現状の有力者の支配荘園などに、

地頭(荘園の租税徴収・軍役・守護に当たった管理者)

などの形で、武士が割り込む二元的な支配構造となります。

さらには「問注所」と呼ばれる訴訟の受付機関を設置し、

土地の争いなどの当事者同士の武力闘争を禁止します。

 

貴族勢力と武家勢力の覇権争いと「頼朝」「義経」兄弟の確執

 

「完全な武家政権」

これは京都などの貴族と、武家勢力の権力争いの始まりでもあります。

しかし、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、

あの有名な「源義経」の(1159~1189)と

「源頼朝」(1147~1199)の兄弟争いも、

この覇権争いの構図が背景にあります。源平合戦の後、

後白河法皇(1127~1192)が貴族権力を強めるため

「義経」を始めとした、京にいる武士に

独断で官位を与え始め、貴族勢力に取り込む事により

その勢力を強めようとします。

「完全な武士政権」を目指す鎌倉の頼朝はこれに激怒、

「朝廷の使者」として壇ノ浦の戦いの捕虜であった

平宗盛親子の鎌倉護送の任で、

鎌倉に凱旋した、義経とその平宗盛親子の入国を拒否します。

義経はこの時、とどめ置かれた鎌倉の手前、腰越の地で

官位の件などの弁明をしますが、

(この時の義経の弁明書を腰越状と言います)

兄・頼朝は取り合わず、義経は京に追い返されます。

義経は、後白河法皇と鎌倉幕府(頼朝)の

権力争いに巻き込まれた形となります。

朝廷勢力の完全排除を目指す鎌倉幕府は、

朝廷・貴族側に取り込まれたと見なされた義経の

西国の所領24カ所をすべて没収。

鎌倉幕府と対立構造にあった

この時、同じような立場の武士たちが、

義経・朝廷を中心とした鎌倉幕府への反乱を画作します、

しかしこれが、頼朝の知るところとなり、

頼朝は義経の存在をさらに危険視、

ある計画を実行に移します。

「堀川夜討」と呼ばれる「義経暗殺計画」です。

しかし頼朝はこの暗殺に失敗、暗殺計画が

義経の知るところとなり、

これにより、兄弟の確執は「決定的」な物となります。

鎌倉幕府の確立

 

当初反乱に消極的だった義経も

この暗殺事件を受け、「頼朝との決別」を決意します。

後白河上皇に、頼朝追討の院宣(上皇などの命令)をもらい

京で頼朝追討の軍を募ります。

この対立構図は、貴族側が思い描いた形で、

まさに後白河上皇ら貴族側の「計画通り」の流れとなります。

しかし・・この時

鎌倉幕府は、武士たちに恩賞として、

土地の安堵を約束し、

さらに、手柄を立てたら新たに土地を与えるという

仕組みを確立しており、

鎌倉幕府と各地の武士たちの利害関係・絆は強固でした。

そのような背景もあり、

この時、義経や後白河上皇の元に反乱の兵は全く集まらず、

頼朝追討の軍の挙兵・軍の編成に失敗。

(この時法皇・義経側に集まった兵は300程度、鎌倉側は10万の兵で京へ出陣)

義経は、少しでも軍を立て直すため京を離れ、

未だ鎌倉幕府に従わない武士が多い「西国」に向かいます。

この知らせを聞いた頼朝は、

「義経の不在」を好機とし、

後白河上皇に使者を送り、その圧倒的な力で圧力をかけ、

頼朝追討の院宣を取り下げさせます。

義経らの官位も剥奪させ、

逆に法皇から「義経追討の院宣」を引き出します。

この時、鎌倉幕府は、「義経追討」を名目に

全国に守護地頭を置くことを「朝廷に認めさせ」、

1185年鎌倉幕府の全国支配を確立しました。

これによって、鎌倉幕府の成立とすると言う説もあります。

義経の最後と奥州藤原氏の滅亡

 

ついに謀反人となった義経は、

1年以上の逃亡生活を経て、

平泉(東北地方中部)に身を寄せます。

当時の平泉は、京に次ぐ大都市で

奥州の王と称された藤原秀衡(1122~1187)

が治めており、鎌倉幕府が唯一恐れるほどの、

強大な力を誇っていました。

義経は幼少期に鞍馬山を出て頼朝の元へ向かうまでの

9年間ほど、この藤原秀衡の元にを寄せており、

二人は旧知の仲でもありました。

「いずれ鎌倉幕府が攻めてくるだろう」と

考えていた秀衡は、戦上手の義経を大将に

鎌倉幕府と戦う決意をします。

しかし1189年、義経が平泉入りして9ヶ月後

秀衡は病に倒れ、そのまま亡くなってしまいます。

「義経を守って大将とし鎌倉幕府と戦え」

との遺言を残しますが、

跡継ぎの4代当主藤原泰衡(1155~1189)はこれに従わず

鎌倉幕府側に恭順しようとします。

遺言に従おうとする兄弟まで斬り、

さらに泰衡はひそかに義経にも兵を向け、

そして義経を討ちます。

しかし、3代当主・秀衡の予想通り、

義経の死を知った鎌倉幕府は、これを機に大軍で奥州へ進軍、

1189年奥州を攻め落とし、奥州藤原氏は滅亡します。

この事により、鎌倉幕府に対抗できる勢力は無くなり

1192年源頼朝は征夷大将軍に就任、

「鎌倉幕府が確立」されました。

北条氏の台頭と執権政治

 

1199年鎌倉幕府の創立者

源頼朝が落馬により(なぜ落馬したのかには様々な説があります)亡くなります。

鎌倉幕府の体制は、上記にも書きましたが

武士に領地を与え、所領を安堵し

武士はその土地を一所懸命(一生懸命の語源)に守る

武士の慣習を重要視した「御家人制度」です。

頼朝の死後、有力な御家人たちの権力争いや

土地の争いなどが多発します。

この時、鎌倉幕府2代目の源頼家(1182~1204)

は「武士の慣習」などに全く興味を示さず、

武士にとって一番大事とも言える

「土地の問題」の争いなどが起こっても、

まともな裁きをしなかったりと、

御家人たちからの支持も薄かったようです。

不満が高まる御家人たちを押さえるため、

源頼朝の正室、北条政子(1157~1225)は

息子・頼家から実権を取り上げ、

御家人達の中から、有力な人を選び、

代わりに政治を行う体制

「有力な御家人宿老13人の合議制」を作ります。

この時、最高職の執権には、北条政子の父

北条時政(1138~1215)が就任します。

2代目将軍・頼家はこの新体制に反発、

周囲を自分に従う人間のみで固めて、

勝手に政治を行おうとしますが、

北条家や有力御家人などにより、

その後ろ盾の一族などを滅ぼされ

2代頼家自身も鎌倉を追放され伊豆で幽閉

そのまま伊豆で殺害されます。

鎌倉幕府3代将軍は、2代頼家の弟

12歳の源実朝(1192~1219)が就任します。

源実朝は貴族志向が強い人物で、朝廷にも気に入られ

武士として初の右大臣に就任します。

しかし、御家人たちからは、朝廷勢力と結びつきを強める

実朝をよく思わない人も多く、1219年、

右大臣拝賀の儀式の帰りに暗殺されてしまいます、

その犯人は、2代将軍頼家の息子で公暁という人物でした。

その公暁も、この時の執権、北条義時によって討ち取られ、

これにより鎌倉幕府を開いた、

「源氏」は3代で滅ぶこととなり。この時より鎌倉幕府は、

北条家を中心とする、有力御家人が完全に実権を握る事となります。

承久の乱と鎌倉幕府の安定

 

しかし依然として、

貴族勢力と武士勢力の覇権争いは続いており

地方においても、その構図での対立を深めていました。

鎌倉幕府3代将軍実朝は、

朝廷貴族勢力との結びつきに力を入れていた為

その暗殺事件がきっかけで、

朝廷貴族側の鎌倉幕府に対する不満が最高潮となり、

朝廷・貴族側に倒幕の動きが高まります。

1221年(承久3年)

後鳥羽上皇(1180~1239)は、

鎌倉幕府と執権・北条義時討伐の院宣を出し、

「承久の乱」を起こします。

しかし関東武士の結束は固く、

この時集まった兵は19万にも及んだと言われます。

予想を遙かに超える幕府側の大軍団を予想していなかった

朝廷軍は1ヶ月経たない間に敗北、乱は収束を迎えます。

北条義時は唯一武力で朝廷を倒した武将となります。

この戦いの結果、朝廷側の貴族・武士の所領は没収

鎌倉幕府はその勢力が西国深くまで大きく及ぶこととなり、

承久の乱の反省や経験を経て北条義時はこの時、

京に朝廷や貴族の監視機関の

「六波羅探題」を設置します。

また、北条義時の死後、その息子北条泰時(1183~1242)

が執権就任し、これまでの戦いや権力争いを踏まえ、

裁判で公正に裁くための、法律を定めます。

これまでの律令制度を基本に、

武士の慣習などを取り入れた法律となり、

武士による最初の法律、

全51箇条の「御成敗式目」が誕生します。

さらにこの時期、全国で農業などの生産力が向上し

各所で市が開かれ、経済が豊かになり

鎌倉幕府は徐々に安定期を迎えます。

モンゴル帝国の台頭

 

この頃大陸では・・

長江の南、江南地方を治める「南宋」と

華北の「金」が対立していました。

その金よりもさらに北方の草原地帯で、

勃興した勢力がありました

「モンゴル帝国」です。

遊牧民を統一した、テムジン(1162~1227)は、

その名を「チンギスハン」と称してその勢力を増していました。

度々モンゴルは「金」に侵攻していて、対立関係にありました。

これを好機と捉えた「南宋」は、

「モンゴル」と手を組み、金を滅ぼします。

しかしその後、モンゴルは経済的に豊かな

「南宋」をモンゴルに吸収するため、同盟を解消し

南宋侵攻を決定します。

モンゴルが急速に力を強めたのは、侵攻当初は失敗続きでも、

うまく現地の部隊や戦法を吸収し学習したためと言われます。

モンゴルは、経済国の「南宋」を攻めるに当たり、

戦略として、その退路を断つために、

西はチベットや雲南地方の大理国を制圧しその勢力は

強大なものとなります。

次は日本を服従させる

 

モンゴル帝国は南宋攻略の一環と

海上の利権など確保などの理由もあり、この時

海軍を持たないモンゴルは海軍・艦隊の確保が問題視されていました。

この時期、弟たちの権力争いに勝利したチンギスハンの孫フビライは

5代ハンとなり、フビライハン(1215~1294)と称します。

フビライハンは、ついに本格的な南宋に侵攻を開始します。

20万の大軍で首都臨安に迫り、

その結果、南宋の首都・臨安は結果無血開城、

8歳で即位していた、南宋皇帝衛王は、

抗戦派の将兵に守られ海上へ脱出します。

香港近くの無人島に1000艘に及ぶ大船団をつなぎ、

それを要塞として立てこもります。

この時モンゴルは、アラブ系の商人力を借り、大船団を編成し

これを攻略します。南宋はついに滅び

モンゴルはその豊かな経済地と

大船団を手に入れる事になりました。

そして、フビライハンは各将兵などに、こう命じます。

「次は日本を服従させる」

文永の役(元の侵攻1回目)

 

1271年フビライハンは

国号を「モンゴル」から「元」(大元)に改めます。

1274年、元軍25000以上と、元に服従していた

高句麗軍8000が約1000艘の船で

日本の対馬・壱岐の島々に侵攻。

これを征服し、九州博多湾に侵攻を開始します

日本側は海賊の松浦党や地元御家人に招集をかけ

善戦しますが、その上陸を防げず、

古代の白村江の戦い

詳しくは意外と知らない時代をざっくり解説 ③ ~飛鳥時代へ

で築いていた、水城まで防衛線を下げます。

日没を迎えますが、元軍はこれ以上内地に入ることを危険とし

夜の内に撤収します。撤収の理由は、

これには「日本側が予想を遙かに超える善戦をしたから」

または、この侵攻は、様子見で、

「日本側に脅しとその戦力調査の目的で侵攻した」

などの様々な説があります。

その帰路、元軍は暴風雨に遭遇し、

軍船や兵を多数失います、

その被害は10000人以上と言われ、この侵攻の

元側の戦果は、壱岐対馬の住民等、

数百人を捕虜にしたのみとなります。

弘安の役(元の侵攻2回目)

 

この時の鎌倉幕府・執権北条時宗(1251~1284)は、この侵攻をうけ

朝鮮半島などに反撃を計画しますが遠征の軍備などが足りずに断念、

その代わり、博多港周辺や海岸沿いに防塁を築かせ、

さらに九州の御家人に交代で警護させます。

この間に元は何度か日本に使者を送り

服従を求めますが、日本側はその使者をすべて切り捨てます。

これにより元は日本を本格的に滅ぼすことを決定。

その兵力約10万・軍船3500艘の大軍団で侵攻を開始します。

日本側も前回の侵攻より、防衛を増強しており

湾岸に築かれた防塁で4万の軍で抗戦します。

思ったよりも屈強な日本の軍に、元軍は苦戦します。

博多上陸を断念し、壱岐周辺まで

軍を引き、江南からの援軍を待ちます、

この時元軍は、船内で疫病が発生

多くの犠牲者が出ています。

江南軍と合流後元軍は再び上陸を開始

現長崎県平戸に上陸し、ここに拠点を築こうとします、

しかし薩摩の御家人、島津氏や海賊の松浦党などがこれを襲撃

日本軍の猛攻に鷹島(現松浦市)で動けなくなります。

ここで、さらに暴雨風雨が発生、

元軍の船団に大被害を及ぼします。

この時元軍の指揮官らは無事だった船で逃走。

数万の元軍は鷹島に置き去りにされ、指揮系統の壊滅を察知した

日本軍は鷹島に総攻撃を開始、

元軍三万人以上が捕虜となります。

この時元軍の兵士は、日本を征服した後に定住する目的で、

鍬や農具などを大量に持参していたそうです。

この「日本遠征の失敗」は元の権威の低下を招き、

元の内部でも紛争が起こります。

フビライハンは日本の反撃に備えるとともに、

何度か3回目の日本遠征を計画しますが、

そのフビライハンの死により、

その計画は実現することはありませんでした。

ちなみに・・

フビライハンの側近の中に

あの有名な「マルコポーロ」(1254~1324)

がいます。

マルコポーロがヴェネツィアへ帰国後

東方見聞録(世界の記述)に日本(ジパング)

のことを紹介する、その一説に

「日本は莫大な黄金を産出している」との記述があり、

「黄金の国ジパング」のイメージが定着することになります。

ジパングという呼び方は、中国語の日本の呼び方「ジーペンクオ」

が「ジマングー」「ジパング」となったと言われています。

鎌倉幕府の滅亡とその理由は

 

まず、改めて鎌倉幕府の仕組みとして武士には

幕府より土地の安堵があり、それぞれが、

一所懸命にその土地を守る仕組みが基本です。

簡単に書くと、その土地は、

武士の子から子へと引き継がれ、

たとえば、3人の子供がいたらその土地は3つに

分割することになります。

相続した土地が分かれて、所領が狭くなれば、収入は少なくなります。

一部の武士や有力な御家人は、

恩賞で新しい土地を手に入れますが、

全体で見たらそれは少数です。

段々と時代が進むにつれて、武士は困窮するようになり、

お金の工面が得意ではない武士たちは、

「借金」でなんとか生活しているような状況でした。

鎌倉幕府に対する不満が徐々に高まっている中、

ここにきて、日本に外敵が侵攻してきます。(上記元寇)

武士たちは貧困の中、恩賞をあてに、

家財道具を売り、さらには借金をしてまで

戦いの準備をします。

その結果、元の襲来を退けた武士たちでしたが、

恩賞となる土地を幕府から貰えません。

幕府としては、この防衛戦で新しい土地を得たわけでもなく

度重なる分割相続の結果、与える土地がなかったのです。

そこで鎌倉幕府は、土地を与えない代わりに、

武士の借金を帳消しにする「徳政令」を出します。

武士はこの事により、金融業者など貸す側

からの信用を失うことになり、

そして新たな借り入れも出来なくなります。

結果、武士たちはさらに困窮するようになり、

鎌倉幕府を離反する武士が大量に発生します。

その一部の武士は、幕府・荘園の領主に反発し、

その武力で金品や土地を奪ったりするようになり、

そのような武士たちの事を当時「悪党」と呼びました。

現在の悪党の語源となります。

これを機に、長年武士勢力と対立関係にあった

朝廷・貴族勢力が、動き出します。

後醍醐天皇(1288~1339)は、ついに倒幕を計画。

何度か失敗し、隠岐の島に島流しになりますが、

諦めず脱出し、再度倒幕のため、船上山(現鳥取県)

で再度挙兵します。

この時、鎌倉幕府から鎮圧のため派遣されたのが、

あの「足利尊氏」(1305~1358)となります。

しかし尊氏は、逆に鎌倉幕府への反乱を宣言、

京の六波羅探題を滅ぼし、京を占拠します。

また、東国では新田義貞(1301~1338)が倒幕のため挙兵。

全国各地の幕府に不満を持つ寺や武士・悪党がこれに呼応します。

鎌倉幕府は瓦解し、ついに滅亡することになります。

 

今回は以上です

有り難う御座いました。