歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説 ③ ~飛鳥時代


今回は

意外と知らない時代をざっくり・第3回

前回の続きから(第2回古墳時代)~飛鳥時代を書いていきます

前回、日本列島が海外勢力の占領下に入る危険性が非常に高まった戦争

663年の白村江(はくすきのえ)の戦いを古墳時代末期として

最後に少し触れましたが

なぜ大和国家は建国したばかりの状態で

この無謀な戦いに挑んだのか?

今回は、そのあたりも少しだけ詳しく書いていきます

飛鳥時代とは

 

現在の奈良県高市郡明日香村付近の地

「飛鳥」に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)

にかけての118年間を飛鳥時代と呼びます。

前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、

方墳・円墳、八角墳などが造り続けられますので、

この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともあります

飛鳥時代で有名な人物は

聖徳太子(574~622)(厩戸皇子)や

中大兄皇子(626~672)などです。

大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)

として区別する事もあります。

飛鳥時代の時代背景

 

まずざっくり、飛鳥時代の成り立ちで書くと

大陸の漢王朝の崩壊によって、

周辺の朝鮮半島などの

勢力がが自立し始めます

高句麗や百済や新羅などです

一方日本大陸では大阪平野に巨大古墳を造った

河内王朝とも言える勢力が台頭していた時代です。

前回・~古墳時代参照

応神天応~始まるとされるこの勢力は、

日本で唯一天皇の中で、猟奇的・暴君と評価される

「武烈天皇(489?~507)」で、

直系が断絶します。その後

一族の「継体天皇(450~531」(おおどのおおきみ)

が迎えられ、継体天皇が現代の

皇室の直接の祖先となります。

(下記は継体天皇像)

武烈天皇は日本書紀で唯一猟奇的・暴君との評価ですが、

歴史書などの性質上、前の王朝の君主は、

悪く評価され、それを倒して現王朝が成立~のように

恐らくここで、大きな政権交代、

もしくは政変があったと考えられます。

物部氏・蘇我氏などの有力豪族

 

上記、継体天皇も物部氏などの実力者から迎えられました

飛鳥時代において、物部氏や蘇我氏などの有力豪族は

この時代の中心的な存在です

物部氏は元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族で、

しだいにその他有力氏族と並ぶ、有力氏族へと成長していきます。

蘇我氏は古墳時代から勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)

を出していた有力豪族です。

この各勢力の対立なども、その後の歴史に大きく関わってきます。

縄文の王「オオクニノヌシ」信仰の物部氏は、

外国から蛮神を入れるなと主張。

それに対して、渡来系の集団を掌握する

蘇我氏は、外国の神を受け入れろと主張します。

この争いは、武力闘争まで発展し、この戦いは

蘇我氏側が勝利します。

その後、蘇我氏は上記、継体天皇の子供の欽明天皇に2人の娘を嫁がせ、

皇后の一族として、その勢力をさらに拡大します。

強大な権力を得た蘇我氏は、自分に敵対する皇子などを次々と殺害

味方とする天皇(崇峻天皇(553~592))

を擁立し傀儡にしようとしますが

その味方とした崇峻天皇も、

この専横に対する不満を口にするようになります。

結果、蘇我氏はこの崇峻天皇も暗殺、しかしこの時、強大な権力の蘇我氏に、

その責任を問う声はありませんでした。

推古天皇と聖徳太子

 

この後、平然と蘇我氏は暗殺した天皇の姉擁立します

公式記録上は、初の女性天皇の「推古(すいこ)天皇(554~628)」です。

この時、推古天皇の補佐する為に摂政に就任したのが

あの有名な、聖徳太子です。これが、593年頃となります

・・とはいえ、蘇我氏の力は強大ですので、

推古天皇も、聖徳太子も事実上蘇我氏に従うしかありませんでした。

聖徳太子も例外なく、蘇我氏と物部氏の対立の中で、

物部氏討伐の軍に加わって戦っています。

あの有名な、冠位十二階、17条の憲法や遣隋使なども

(同ブログ 「歴史上その後シリーズ③小野妹子のその後」・参照)

この蘇我氏の承認を得た物で、

実は聖徳太子と蘇我氏のと二人三脚で

出来た政策になります。

その後、歴史上で、「聖徳太子のみ」の

実績とされているのは、時代は変わりますが

「日本書紀」の編集者が、蘇我氏を逆賊とする意図が

あったためとされており、

その編集責任者は舎人親王(676~735)ですが、

実質の編集者は、「藤原不比等(659~720)」と

されていて、藤原不比等の父親は、

その後、蘇我氏を滅ぼした

あの「中臣鎌足(614~669)」になります。

大化の改新の始まりとその時の大陸情勢

 

蘇我氏全盛と聖徳太子の時代から60年後

そのころ大陸では、遣隋使の「隋」が滅亡し「唐」が建国されます。

唐は朝鮮半島の国、高句麗を挟み撃ちにするため

同じ朝鮮半島の国、新羅と同盟します。

 

この頃の大和国家では、

相変わらず蘇我氏が権力を誇っており

傀儡に出来る、天皇を次々に擁立します

蘇我氏は、聖徳太子の子供である山背大兄王も殺害

その中で、同じように蘇我氏の傀儡になることを嫌い

蘇我氏(蘇我入鹿・蘇我蝦夷の親子)

の打倒を画策した天皇の皇子がいました

あの「中大兄皇子」です。

645年三韓の朝貢使者を迎える式典で

中大兄皇子とその側近の中臣鎌足による

クーデターが発生します

その席で中大兄皇子は自ら武器を持って

蘇我入鹿を殺害します、その足で

その父親の蘇我蝦夷の邸宅を囲み自害に追い込みます。

この事件は「乙巳(いつし)の変」と言い

この出来事が大化の改新の始まりとされています。

この間に、大陸では上記、

唐と新羅の連合軍が互いに協議し

連合軍の第一目標である高句麗を攻める前に、

先に百済に侵攻しました、

その大軍を前に瞬く間に百済は滅亡します。

大和国家の危機と白村江の戦い

 

その知らせを受け、

人質として日本に滞在していた

百済の皇子、扶余豊璋(623~668)は愕然とします。

しかし、百済の残留勢力で王族で将軍・鬼室福信(~663)などは

唐軍が一時的に撤収した隙を見て

百済再興の軍を起こします、

そしてその鬼室福信ら残留勢力は、

古くから親交のある大和国家に

援軍と扶余豊璋の帰国願いの使者を送ります。

上記乙巳(いつし)の変で

実権を握っていた、中大兄皇子は、

百済再興の援軍を送る重大な決断をします

この決断は大和国家が、超大国の唐と戦うという事です。

なぜ無謀な決断をしたのかは諸説あります、

*古くから親交のある百済との関係から~説

*朝鮮情勢の大和国家の勢力挽回を画策~説

*百済を支配し国内政治などに利用~説

*国内の反対豪族をわざと負け戦に投入し処分~説

*当時の情報では勝てる見込みがあった~説

など様々ですが、いずれにしても663年頃に

大和・百済連合軍27000は、北九州より朝鮮半島に出航します

これが白村江の戦いとなります。

当時大和国家の人口は約500万人

唐はその約10倍の人口なので、如何に無謀な戦いだったかが分かります。

さらに開戦直後に百済内部で主導権争いが起こったりし、

大和・百済連合軍は、唐と新羅の連合軍に大敗し、

この敗戦により、倭国・大和国家は、

日本列島の領土は奪われなかったものの、

朝鮮半島の領地や権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など

国の基礎部分を根本的に変革する必要に迫られます。

日本国としての独立

 

白村江野戦いに勝利した唐と新羅の連合軍は

そのまま高句麗に侵攻

朝鮮半島全体が唐の勢力下になる可能性があり

建国以来最大とも言える危機を

大和国家は迎えることになります。

中大兄皇子は、唐の侵攻に備えるため

大阪湾に面した難波宮を飛鳥に移したり

瀬戸内海に城塞を築いたり、太宰府に

巨大な土塁を作ります。

この時、中大兄皇子は大王に即位し

「天智天皇」となります。

実は、全国的に戸籍を作ったのもこのあたりの時代になります。

 

一方・・唐は、

大和国家に3000の兵士と共に使者を派遣

服従を要求しますが。

唐には、それどころではない事情が発生します

この時の倭国側には幸運にも

唐・新羅連合軍が攻め滅ぼした百済や高句麗の元領土、

その土地の取り合いで唐と新羅

同盟国同士での、内輪もめが始まります。

672年頃のこの時、大和国家は2つの選択を迫られます

唐に服従して新羅と戦うか、

逆に新羅と同盟し、唐を倒すかですが、

この局面・タイミングで

なんと天智天皇が亡くなります。

このことで大和国家は皇族同士の内戦が勃発します

天智天皇の子「大友皇子」擁する親唐派と

天智天皇の弟「大海人皇子」擁する親新羅派です

あの手塚治虫氏の

漫画「火の鳥・太陽編」の題材にもなった内戦です。

この戦いを「壬申の乱」と言います。

この戦いで勝利したのは「大海人皇子」擁する親新羅派です

このことから、大和国家の方針は、

「新羅と関係を修復して唐と敵対」とすることになり、

ここから、約30年間は遣唐使は廃止されます。

この後に大海人皇子は即位し天武天皇となり、

「天皇」と言う称号

「日本」という国号を正式に採用したのは

この時からとなります。

701年頃日本で最初の律と令が揃って成立した本格的な律令とされる

「大宝律令」が制定されたり

708年には日本で最初の流通貨幣と言われる

「和同開珎」を発行したり

徐々に日本国として独自の成長していきます、

この後710年頃平城京に遷都したところで、

飛鳥時代とされる時代区分が終わります。

 

 

今回は以上です

次回機会と需要があれば続きの時代なども書いていきます

ご愛読有り難う御座いました。