歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説 ① 縄文・弥生時代~


今回は

皆さんが意外と知らないかもしれない時代に

スポットを当て

ざっくりと書きます

とりあえず歴史は膨大なので

今回は縄文~弥生時代のあたりをざっくり書きます

縄文・弥生時代とは

 

まず弥生時代とは旧石器時代 (紀元前14000年頃)

縄文時代前14000年頃 – 前10世紀(前1000~901年)を経て

紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃(250年頃)

までにあたる時代の名称です

南から台湾経由、九州南端に伝来した

熱帯ジャポニカ米が伝来し

縄文時代は畑に種をまく陸穂でしたが

この時代あたりから温帯ジャポニカ米、

水稲(水田)が伝来します。

水稲は長江流域(大陸)の技術ですので

その技術を持った人々が

日本列島に移住してきた証拠となります。

初期の稲作遺跡は九州北部に集中しています

その起源は朝鮮か長江流域かで長年論争がありましたが

稲のDNAの解析により長江流域の技術で

あることが明らかになりました。

同じ時代の大陸では

 

紀元前10世紀頃の大陸は

漢字の原型(甲骨文字)が出来た時代です

その甲骨文字を作った殷の王朝が衰え

周の武王が黄河流域一帯を統一した時代です

周といえば太公望が有名ですね。

この時の戦いなどの要素が日本列島への

移動・移住を促した可能性もあります。

中国の歴史書には、倭人(弥生人のなかでも渡来人)は

その周の武王一族、太伯の子孫と称している

との記述もあります。

国家の原型と神話

 

元々縄文人は、自然の神様を祭る

多神教であったとされます

縄文時代の末期には青森県の三内丸山遺跡など

国家としての初期原型が各地にあります

有名な物としては出雲大社がある出雲です

神話で言う国譲りの話も

(アマテラスがオオクニヌシに日本の統治権を譲れ

と使者を出し国を譲るかわりに私を大きな社に祀ってくれと

交換条件を出し(出雲大社)、アマテラスはこれを受け入れる)

出雲の縄文勢力=国津神

渡来系の弥生勢力=天津神とすれば

縄文勢力から弥生勢力へ

征服ではなく平和的に移行していったと考えられます。

そもそも縄文人には力による戦争・征服という概念が

無かったそうです。(自然との共存思考で木を一本切るのにも儀式)

戦争という思考も大陸から伝来してきた

とも考えられます。

縄文時代~弥生時代の勢力分布

 

出雲の勢力などの

縄文時代の勢力分布は

筑紫(福岡)出雲、吉備地方

越(新潟一帯)大和(奈良一帯)

毛野(群馬栃木あたり)に有力な豪族がいたことが

発掘調査などで分かっているそうです

古代出雲の近くでは大規模青銅器工場が

あったようです。

有名な邪馬台国もこの中の有力地方政権の

一つです。筑紫(福岡)大和(奈良一帯)など

未だ論争が続いています。

上記地方などの交易品や貢ぎ物が

大和盆地へ集中していたようで、

大和地方には中央政府、中央センターのような物の

原型が出来ていたようです。

ちなみに「卑弥呼」と実在する最初の天皇ともされる

「第10代・崇神天皇」は同じ時代の人です。

大陸では有名な「三国志」の時代あたりです

この崇神天皇は出雲の縄文勢力の象徴=国津神を祀ったとされ

先住民の象徴を破壊せず

渡来系の勢力アマテラスが祖先の天皇家が

先住民出雲の勢力の神を祀ったとするならば

やはり、縄文から弥生への移行は

征服ではなく平和的に融合したようです。

弥生時代の世界史

 

上記にも記載しましたが

日本の弥生時代の世界史はざっくり

二つの大きな帝国が存在していました

1つは「三国志」で有名な漢の帝国

1つはローマ帝国です(西ローマ帝国)

漢の帝国は財政難から増税を繰り返し

民が疲弊、その後三国志で有名な

「黄巾の乱」へとつながります

卑弥呼の魏志倭人伝の「魏」は

あの曹操・孫権・劉備の

魏・呉・蜀の「魏」です。

時代は古墳時代へ

 

弥生時代を~250年頃とすると

250頃~6・700年くらいまで

(3世紀中頃 – 7世紀頃)

を古墳時代とされています

大和時代もされている時代で

前方後円墳や大和政権

「日本国としての独立」などへとつながります。

・・・が今回はここまでです。

今回もざっくり書きましたが

ご興味がありましたら

さらに深く調べてみると新しい発見があるかもです。

次回気が向いたら

古墳時代~書いていきます

ご愛読有り難う御座います。