歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ⑥黒船・ペリー提督のその後


今回は

ざっくり歴史上その後シリーズ⑥黒船・ペリー提督のその後です

「開国してください」

嘉永6年(1853)に、マシュー・ペリーが率いる

アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の

黒船とも呼ばれた蒸気船2隻を含む艦船4隻で

鎖国中の日本にやってきて開国を迫ったのは

有名な話です

今回はそのペリー提督のご紹介と

その後を書いていきます

ざっくりペリーとは

マシュー・カルブレイス・ペリー

1794年4月10日 ~1858年3月4日

アメリカ海軍の軍人。

ロードアイランド州ニューポートで、

アメリカ海軍私掠船長の

クリストファー・レイモンド・ペリー

の三男として生まれる

14歳9か月で士官候補生の辞令を受け

海軍に入隊するかなりの優秀な軍人

その後ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、

1837年にアメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造

同年海軍大佐に昇進する

1840年に海軍工廠の司令官となる

1846年に米メキシコ戦争が勃発すると、

後年日本に来航するミシシッピ号の

艦長兼本国艦隊副司令として参加、

メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮

後には「本国艦隊の司令官」に昇進

1852年11月に、東インド艦隊司令長官に就任、

その後日本開国へ向けての交渉に至る

日本開国任務の背景

 

ヨーロッパで産業革命が起こり

大量生産された工業品の輸出拡大の必要性があり

ヨーロッパ各国の植民地競争へと発展

当時インドや東南アジアに拠点を持たない

アメリカは出遅れていて

アメリカは1833年にシャム(タイ)と

マスカット(オマーン)

との条約を締結することに成功

ようやくアジア市場進出のめどが立つ

1835年当初日本と清との条約締結のために

特使を派遣することとし、

このときに東インド艦隊が設立

がこの時は交渉などが失敗

アヘン戦争後の1842年に清との間に

望厦条約を締結し中国市場へ参入

アジア市場の進出を進める

当時世界の背景

 

当時の人口は、アメリカが1833年に約1416万人、

清が約4億人

日本が1834年に約2760万人との記録があります

ヨーロッパは

大体ナポレオン1世が1800年~1815年の話

1815~ヨーロッパではウィーン体制の確立

(国同士の勢力が拮抗していれば、

平和を維持することができるだろうという考え方)

七月革命ではベルギーの独立、

ドイツ・イタリア・ポーランドでの蜂起

1848年の二月革命によってウィーン体制は崩壊

こういった1848年に立て続けに起きた革命、

民族運動のことを、

1848年革命と総称します。

アメリカはすでに1846年に

イギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土とし

米メキシコ戦争でカリフォルニアを獲得

これによりアメリカは太平洋国家となり、

巨大市場である清との貿易開拓が国家目標となります

元々は捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

 

産業革命により工場などが夜間

も稼働するようになり

その潤滑油やランプの灯火として、

主にマッコウクジラの鯨油が使用されていて

この大きな需要を満たすため、

欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で

捕鯨を盛んに行なっていたようです

当時捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であり

当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたので、

大量の薪・水や資源食料などが必要で

長期航海用の資源を含め、

太平洋での補給拠点が求められていたようです

日本近海は

ジャパン・グラウンドと呼ばれる

伊豆諸島・小笠原諸島付近が好漁場だったそうです

 

ペリーの計画は

 

ペリーは日本開国任務が与えられる2年近く前の1851年1月、

日本遠征の独自の基本計画を

提出。以下のように述べている。

 

1 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。

2 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。

3 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」

4 オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。

 

ちなみにペリーが日本に持参した

国書の内容は要約すると以下の通り

偉大なる善き友へ。

アメリカ合衆国海軍の最高位士官であり、

貴帝国を訪問中の艦隊総司令官である

マシュー・C・ペリー提督に託し、この国書を謹呈する。

私は陛下と陛下の政府に最も親愛なる気持ちを抱き、

お互い貿易すること以外の如何なる意図もないことを、

皇帝陛下にはっきり申上げるようペリー提督に命じている

貴国の祖法が支那とオランダ以外の

貿易を禁じている事は承知している

今や世界情勢は変化し新しい国々も出来ており

時として新しい法律を作るのも

賢明な方策であると思われる。

もし外国貿易を禁じる祖法を

完全に廃止することに不安があれば、

五年から十年に限り、試みに祖法を一時中止することも出来る。

もし期待の通りに有利でなければ、また祖法に戻ればいい

以上、友好、貿易、石炭と必需品の供給、遭難者の保護、

これらだけが、私が強力な艦隊と共にペリー提督を

皇帝陛下の名高い首府・江戸に向け派遣した目的である。

いくつかの贈答品はたいした値打ちは無いが

合衆国製造品の見本であり、

我々の心から敬意をこめた友情のしるしである

皇帝陛下に神のご加護あらんことを!

以上の証とし、アメリカ、ワシントン市の我が政府において合衆国の印璽を押し、我が名を署名する。1852年11月13日。
(印璽)

浦賀来航まで何をしていたか

 

1852年11月24日、「ミシシッピ号」は、

単艦でノーフォークを出港し

アジアへ出航する。

アフリカ→インド経由で

上海には1853年5月4日到着

当時の大統領フィルモアは

琉球占領や武力行使も許可していたが

ペリー上海到着時点ではすでに

大統領は民主党のピアースに代わっていて

侵略目的の武力行使を禁止、しかし

航海途上のペリーには伝わっていなかったようです。

5月17日に出航し、5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊

ペリーは首里城への訪問を打診したが、

琉球王国側はこれを拒否。

しかしペリーはこれを無視!、

行進しながら首里城まで進軍し

琉球王国は仕方なく、

「武具の持込と兵の入城だけは拒否する」として

ペリーは首里城に入城、国書を手渡す

琉球王国はその後も遠回しに拒絶するも

一応友好的に振舞ったことで

琉球王国は武力制圧を免れ

琉球王国はこの後もペリー艦隊などの

日本への中継点として活用される

艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、

6月14日から6月18日にかけて、

まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。

このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、

即座に各国から抗議を受け、宣言はうやむやになった。

6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、

7月2日に大統領からの親書を手に3隻を率いて日本へ出航。

浦賀へと向かう。

黒船来航時のペリー視点

 

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に到着

この時ペリーは日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとっていた。

日本側は浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、

ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を

渡すことが目的であることを把握

この時中島三郎助は「副奉行」と詐称したが

ペリー側は幕府側の階級が低過ぎるとして

親書を預けることを拒否

親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけ

「最高位の役人派遣しないなら江戸湾を北上して

兵を率いて上陸し将軍に直接手渡しすることになる」

と圧力をかける。

同日、ペリーは艦隊所属の各艦から一隻ずつの武装した短艇を派遣して、

浦賀湊内を測量これが日本幕府へのさらなる

圧力となったようです

加えて6月6日早朝から測量艇隊は

江戸湾内に20キロメートル程侵入

ペリーはこの時強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、

日本幕府の目を覚まさせ、

米国にとってより都合の良い返答を

与えると考えていたようです。

その後、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見

ペリーは彼等に開国を促す大統領フィルモアの親書提督の信任状、

覚書などを手渡した(親書・上記記載)

幕府は将軍の病気を理由に1年の猶予を求め

ペリーは一度琉球や香港に引き上げます。

1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、

ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航

「1年の猶予」でしたがペリーは心理戦の考えから

奇襲作戦のように

半年後に再び来航を決めたようです。

 

・・・このような経緯で

ここからようやく、

かの有名なエピソードが展開され、

1854年3月31日(3月3日)

「日米和親条約」(神奈川条約)が締結されます

日米合意は正式なものとなり、

3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれた

事になります。

その後のペリー

 

さて本題です。

 

ここからペリーはどうなったのかを書いていきます

琉球と日本で通商条約を結んだペリーは

那覇に寄港して、1854年7月11日、

琉球王国とも琉米修好条約を締結。

その後ペリーは

体調不良に悩まされ

香港で本国政府に帰国を申請し許可を得た。

艦隊の指揮権を譲って1854年9月11日に

イギリス船に便乗し、

西回りの航路と陸路で帰国

この偉業はすでにヨーロッパなどに伝わっており

ペリーは行く先々で大歓迎されたようです。

1855年1月12日にニューヨークに帰着した。

ミシシッピ号は

東周りの航海で1月22日にニューヨークへ

帰着しその号上で1月24日に

ペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行された

帰国後ペリーは・・・

航海に出ることは2度とありませんでした。

アメリカ・マンハッタンに住み

本国で執筆活動を始めます。

「日本遠征記」全三巻がそれに当たります

しかしこれは出版費用に

国家予算が使われていたため当時

実際には1巻までしか発売されなかったようです

本の内容は

日本人を賞賛する内容が多く

日本の職人を世界一と書いたり

洗練された国民であるなどの記載があり

ペリーは日本がもっと自由に発明などが出来る国なら

世界でもトップクラスの製造国となるだろうと

予見しています。

この遠征記が完成した2ヶ月後

1858年に心臓発作でこの世を去ります

享年63歳

墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、

娘アンナとともに納められています。

 

条約締結の大役を果たし

日本から帰国して4年後の事になります。

 

ペリーのその人柄が垣間見えるエピソードとしては

他の士官たちからペリーの威張った態度、

挨拶や合図の声が熊のように大声で聞こえるので

「熊おやじ」(Old Bruin)とこっそり

あだ名をつけられていたり

大変家族思いで、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう

強く戒める手紙を書き残しています。

 

 

今回はここまでとします

今回もざっくり書きましたので

詳しくは調べてみると

面白いですよ

有り難う御座いました。