歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説 ⑤ ~平安時代


今回は

意外と知らない時代をざっくり解説 ⑤~平安時代を書いていきます

平安時代と言えば794~1185年頃の時代区分です

基本的には「平安京」に都があった時代・・と言う意味です。

大きくは武士という存在の起源があり

あの有名な源平合戦もこの時代です。

また、遣唐使の廃止により

大陸の影響が弱まり「国風文化」といわれる

日本独自の文化が始まりました、

平仮名・片仮名の発明により様々な

歴史物語・軍記物語などの時代を顧みる

文学が芽生えたのもこの平安時代です。

390年もの長い時代のため今回お話は長くなりますが

順を追って書いていきます。

無政府状態だった地方

 

まず平安時代初期の日本の情勢は

大和国家の影響力があった、

近畿地方を中心にその影響力があり

奈良時代から続いていた墾田永年私財法により

(新しく開拓した土地の私財を認める法律)

「墾田永年私財法」の内容、詳しくは、

前回「意外と知らない時代をざっくり解説④~奈良時代」へ

政府は、貴族・豪族などの大規模の土地所有を黙認していました。

その中央政府の実力者や高官(藤原氏など)に賄賂を渡し

また貴族だけではなく、寺院などもこの制度や賄賂で力をつけ

その宗教勢力が政治に介入する・・といった事などもあり、

中央政府も汚職などが横行し政治が腐敗していました。

また、東北などの地方はその影響力が届かない地域もあり

事実上の無政府状態でした。

桓武天皇の積極政治改革

 

上記のような無政府状態などを危惧し

立ち上がったのが

第15代天皇の桓武天皇(737~806)です。

まず、桓武天皇は腐敗した貴族などや宗教勢力の

切り離しのなどの理由で、「長岡京」に都を移します。

しかし新しい都の造営担当者の藤原種継が暗殺されるなど

改革の反対勢力が台頭。

その中で桓武天皇の弟、早良親王(750?~785)も疑いをかけられ

島流しとなり、その道中で死亡するなど、

遷都による政治混乱が起き、

さらにその時長岡京に、流行病まで発生します。

混乱を避けるため桓武天皇は長岡京を諦め

葛野(現在の京都府京都市の中心地区)に再び都を移します。

これが「平安京」となります。

江戸時代後期まで日本の首都として存在し、

後の時代で「京の都」と呼ばれる都の誕生となります。

征夷大将軍・坂上田村麻呂

 

「征夷大将軍」

読んで字のごとく「蝦夷を討伐する大将軍」です。

特に東北地方や北海道などの地方は

「蝦夷」と呼ばれる諸部族などが、ヤマト国家の支配を拒否し続けていた

背景があります。

桓武天皇は、坂上田村麻呂(758~811)を征夷大将軍に任命し

国家安定のため、蝦夷を討伐する事を決定します。

801年~以降に始まったこの遠征軍は、

今の岩手県まで北上し、胆沢城を築き、

さらに現在の盛岡付近にも志波城を築城。

これを最前線とします。巧みな戦術で勝ち進み

さらに坂上田村麻呂は降伏した民に

土地や畑を与えた事などから、結果として

蝦夷のアテルイとモレという首長が投降してきます。

この二人を坂上田村麻呂は中央政府に助命懇願しますが、

懇願かなわず二人は処刑されたという記録が残っています。

この時の投降兵などは、「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ

日本各地に分散移住させられたようです。

この遠征の結果日本国の直接支配は岩手県まで拡大したことになります。

その後平安後期になると、蝦夷は徐々に政府に従うようになります。

正規軍の解体と武士団の起源

 

2度にわたる遷都と、蝦夷への大遠征により

国家は財政が困窮します。

やむなく、東北遠征も中止になります。

この遠征を最後に、日本国は正規軍も維持することも

困難となり、事実上、「国が維持する正規軍」は解体します。

国としては、「非武装の国家」となります。

ユーラシア大陸において珍しいケースで、

海に守られた日本は、正規軍がいなくても

この時から12世紀まで国を維持した

唯一の大規模国家とも言われます。

しかし、国内で私有地を持つ貴族や豪族や寺などは、

「自分たちの土地を自分たち」で守らなくてはいけません。

中央政府や実力貴族への納税や献上品も強奪されることも多くあり、

その実力者や大地主の人々などは、自ら武装し、

それぞれが、「独自」に、

武芸に優れた人を、募集し雇い

それぞれの自警団を編成します。

蝦夷の俘囚なども、この時に自警団として多く編成されたようです。

これが「武士団」の始まり・起源と言われています。

遣唐使の廃止の背景とその時の大陸事情

 

この時(750~900頃)の大陸、

「唐」の事情を順を追って書くと、

日本と同じような事情が起きていて、

財政難や政治の機能不全により、正規軍を維持できない状態でした。

しかし唐は陸続きの大陸なので

日本のように守ってくれる海もありません。

遊牧民のウイグルなどの地方勢力がこれを機に唐から独立しますが、

もはや唐には派遣できる軍もありません、

唐の中央政府はこれを黙認します。

そしてこの時、唐が採用した政策・対応策は、

「軍人に丸投げ」です。

軍人に徴税の権利を与え、その代わり防衛は任せると言った内容です。

これにより地方の司令官などは当然力をつけます。

中央政府のコントロールも聞かなくなり、

これは事実上の国家の崩壊です。

 

ちなみに有名な楊貴妃(719~756)は

この時の唐の皇帝・玄宗(685~762)の妃です。

その後、正規軍のいない唐は、その首都を反乱軍に占拠され、

唐の皇帝・玄宗は蜀へ逃亡、

この時楊貴妃とその一族も討たれてしまいます。

そして失意の玄宗は、

そのまま逃亡先の蜀で亡くなってしまいます。

なんとか父の無念を晴らしたい

玄宗の息子・粛宗はこの時、1つの策を講じます、

なんと唐から独立したウイグルに助けを求めたのです。

この策は一時的には成功し、反乱軍を鎮圧しますが、

今度はその味方のはずのウイグルに、

首都を占拠されるなど、結果大混乱を招きます。

この混乱の中、

地方の長官などは勝手に徴税し始め

それを中央政府に送金しないなどの不正が横行します。

唐はこのような流れなどで、

事実上の「国家解体」の状態となります。

しかし解体状態のまま唐は、150年ほど存続はします、

これは地方長官などの税利権などの事情で、

唐が「形だけ」でも存続した方が、

それぞれの権力者に、都合が良かったのもありますが、

この時、唐の中央政府が存続できた

大きな1つの理由としては、

未だ塩の専売の権利を握っていたからです。

当時の塩は貴重品で食料の保存に欠かせない物でした、

塩の売買を認可制にして、これに税金をかけていたのです。

しかし、重税で塩の値段が大きく上がると、

民間などで闇売買、密売のような

事が起こります。

この時に現れたのが、黄巣(?~884)という人物です。

塩の密売で力をつけた黄巣は、政府の取り締まりに対し

反乱を起こし、そのまま首都を占拠します。

この時、唐の政府が行った解決策は、

黄巣の部下の全忠(852~912)を好条件で裏切らせ

内部から反乱を鎮圧することでした。

結果全忠は反乱軍を鎮圧、

この時も、なんとかその場は難を逃れますが、

その事で、大きく力をつけた全忠は、

当時の13歳の皇帝、哀帝に帝位を譲るように迫り、

さらにその哀帝の側近5000人以上を殺害・左遷。

とうとう最後には、哀帝も毒殺されてしまいます。

唐の皇族は根絶やしにされてしまい、

唐は完全に滅亡する事となります。

ちなみに、ここから大陸は全忠や

上記、地方の長官などが、

それぞれで建国したりして、地方政権などが乱立、

「五代十国時代」へと移行し、

それをまとめ上げたのが、「宋」(北宋)となります。

・・一方日本では、

黄巣の反乱が鎮圧されたまさにその頃に、

唐から帰国した僧などの書簡によりこの事実を、

いち早く察知した人がいました、この人物があの

「菅原道真」(845~903)となります。

この時、道真は翌年の遣唐使の責任者に任命されていましたので、

このような事実などを理由に、大陸の混乱から身を引く事、

「遣唐使の廃止」を進言し、これが採用されます、

200年ほど続いた「遣唐使」はこれで完全に廃止となります。

この遣唐使の廃止が、その後の日本に

大きな影響を及ぼすこととなります。

国風文化・日本独自の発展

 

あの有名な空海や最澄など新しい仏教を保護したのも

桓武天皇の時代で、遣唐使で空海や最澄を派遣、

帰国後朝廷の保護を受け比叡山や高野山に新しい仏教を開き

後の時代の仏教の中心地となっていきます。

この時曼荼羅などの密教美術なども同じく発展します。

しかし、遣唐使廃止後、急速に大陸文化の影響がなくなり

さらに平仮名・片仮名の発明で日本語の表記が容易になったことで

枕草子や源氏物語など、女性貴族による様々な文学も発展します。

官衣束帯の衣服(官服の国風化)、寝殿造等の和様建築のなどの

衣住文化も発展していきます。遣唐使廃止などで

上記、大陸の混乱から身を引いたことにより、

日本独自の文化が生まれ育まれ、

これが現代の日本独特の文化へとつながります。

武士の台頭と平将門・藤原純友の乱

 

関東・東北などの地方では、

自警団の組織化(武士団)が大きく進んでいました。

上記にも書きましたが、

この当時は正規軍がいない中央政府でしたので、

それぞれが独自に武士団を編成する中で、

兵を持たない中央政府との

パワーバランスが崩れ、中央政府から離脱し地方政権を設立するような

流れは、当然であったかもしれません。

関東の実力者、平将門(?~940)は

その武士団を率いて大反乱を起こします。

何故大反乱に繋がったのか・・。

当時関東の常陸国あたりにいた平将門ですが、

近隣の武蔵国に新しい国司がきます。

源経基(894~961)と興世王(?~940)です、

着任早々源経基は、

賄賂を渡せと、武蔵国の郡司に強要します。

郡司が拒否したことから、経基は激高、

その郡司の屋敷を焼き討ちにします、

郡司の助けを求める声に将門が軍を率いて駆けつけます。

この軍勢に恐れおののいた興世王は将門に寝返ります。

源経基は京都に逃げ帰り、「将門謀反」と報告。

常陸国の常陸守とそのまま対立した将門は、

やむなく常陸国の国府を占拠します。

結果、中央政府と対立した将門ですが、

その当初は謀反の意思はなく、

横暴に対して、郡司の利益を守るため挙兵しただけでした。

有名な話ですが、この時将門の側近となっていた皇族の興世王は、

将門に「1国をとるのも関東全体もとるのも同じ事」と担ぎ上げます。

この話に乗った将門は、

939年には常陸・下野・上野などの

関東地方一帯の国府を占拠します。

平将門は上野の国府で「新皇」を称し、

日本からの独立の意思を明確にします。が・・

この時中央政府は

正規軍を持たないため、すぐに対処できず、

当事者の源経基らに追討を命じます。

しかし源経基らが関東に到着する前、

940年に平貞盛・藤原秀郷らに

平将門は討伐されます。

平貞盛・藤原秀郷らが、わずかな手勢で将門の本拠地を奇襲

春一番の強風が吹く中、これは偶然か否か、

風に乗った矢が将門の頭に命中し、

指導者を失った将門軍はこのまま崩壊します。

その後関東では到着した源経基らの一族がそのまま勢力を伸ばし、

後のあの「源頼朝」(1147~1199)へと繋がります。

この頃、西国の瀬戸内海でも、

藤原純友が海の武士団(海賊)を率いて反乱を起こしますが、

またこれも他の武士団などにより鎮圧されます。

東北地方の出羽の国においても

蝦夷の俘囚が反乱を起こすなど、

この時期に各地で反乱が起きます。

この事から、中央政府はこの時期より、

武士・武士団代表に官位を与えて、

それを「軍事力」とするようになります。

ちなみに、平将門は桓武天皇の血を引く名門の一族です(平氏)

皇族の場合、天皇にならない皇族に「氏」を与え臣下とします。

桓武天皇が皇子たちに、平の氏を与えたものが「桓武平氏」

清和天皇が皇子たちに、源の氏を与えたものが「清和源氏」

となります。

なぜその名門が関東にいたのか・・・。

これには、平安時代に藤原家が大きく栄華を誇った事による

事情があります。

地方に何故実力者がいたのか

 

当時藤原家が、中央政府の人事権をすべて握っており、

これを私物化していました。

藤原家に敵対する、貴族や皇族は地方にどんどん左遷されていきました。

また同じ藤原氏の中でも、

分家を重ねた結果高官につけない物も出てきます。

そのような没落した貴族も、どんどん地方へ流れていきました。

当時、中央政府は、国ごとに「国司」(知事のような存在)

を派遣していました。

○○守を筆頭に・次席〇〇介などは、

元々、この国司の中での位を表しています。

国司の任務は、国有地の人口調査や戸籍の作成徴税などでしたが、

平安時代の地方は、そのシステム自体が機能不全に陥っており、

地方の農民は勝手に開墾し、私有地(畑)を拡大していました。

この当時の国司は、その国有地を開墾した農民から、

ひたすら徴税し中央政府に送るだけの存在になっていました。

しかし国司といえども、貴族や寺などに

国が土地の私有化(荘園)を認めているため、

実力者の私有地からは、徴税ができません。

農民たちは、中央政府の重税から逃れるためぬ考えます。

その内容を簡単に書くと、

地方の有力貴族や寺などに土地を表向きは寄進し、

自分の土地を、その荘園の一部としてもらい、

農民は収穫の一部を直接その実力者渡す約束をします。

貴族なども名前を貸すだけで、利益が生まれます。

これを「寄進地荘園」と言います。

そのような流れが一般化し、その農民と地方実力者などに

主従関係が生まれます。

また違う形で、

有力な農民の中では自ら武装し武士団化、

土地を「中央の貴族」などに寄進し、

そのままその土地の荘官となり

その勢力を伸ばします。

このような事情などから、

地方には多くのその勢力を大きく伸ばした

「没落貴族」がいました。

なぜ平氏は繁栄したのか

 

将門の乱の後、

伊勢(三重県)に移っていた「桓武平氏」は、

伊勢の海賊衆・商人などと、つながりを強め

力を蓄えていました。

後白河上皇(1127~1192)の護衛を務めて

上皇から気に入られていた、

平忠盛(1096~1153)は、

当時若狭国の(福井県)の若狭守に就任し、

若狭港の商人から宋の国の経済状態や

貿易や利益について学びます。

この時、宋の国は経済発展が著しく経済状態も良好で、

忠盛は、「日宋貿易」を目標とします。

まずその為には、瀬戸内科の安全が必須と考え、

忠盛は上皇に備前守(岡山県)を志願し転じます

さらには、追捕使(海賊討伐の役目)を志願し、

討伐のついでに、

その海賊たちを、配下のとしてくみ込みます。

従属の見返りに、関税の徴収権を海賊首領たちに与え、

瀬戸内海の港を整備し、

外国より宋船を引き入れて

その貿易で莫大な利益を得ます。

その莫大な利益を惜しみもなく皇族へ上納します。

その功績を認められ、武士の身分でありながら、

高級貴族と同じ扱い・特権である

「昇殿」(宮中の殿上の間に昇ること)

を認められます。

この平忠盛の子供があの「平清盛」(1118~1181)です。

その後、清盛は父が築いた基盤を継承して勢力を拡大、

安芸(広島県)播磨(兵庫県)の守を歴任します。

瀬戸内海における交易を独占した清盛は、

さらに莫大な利益を生み、その利益を上納、

清盛は武士として初めて「大政大臣」となります。

宋船と後白河法皇の国書を交換させて

これにより、正式に「日宋貿易」が始まります。

この清盛の日宋貿易により「宋銭」が大量に出回り、

本格的に日本は貨幣経済へと変化を告げていきます。

さらに栄華を誇った平氏は、

娘を後白河法皇の皇子に嫁がせ、

その生まれたばかりの安徳天皇(1178~1185)を

強引に天皇に即位させます。

平氏追討と源平合戦

 

この増長ぶりに激高したのが

平氏の後見人であった後白河法皇です。

後白河法皇は、平氏の後見人を辞め

その後白河法皇の皇子、以仁王(1150~1180)

が平氏追討の命令を東国の武士団へ発します。

この平氏追討の令に応じ、

あの信濃の「源義仲」(1154~1184)や

上記、関東の「源頼朝」などが相次いで挙兵します。

しかしこのタイミングで、

平清盛が熱病で倒れ亡くなってしまいます。

指導者を失った平氏は次々と敗戦し

また瀬戸内海の海賊たちも平氏に見切りをつけ、

源氏側へ次々と寝返っていきます。

あの有名な「源義経」の(1159~1189)

一の谷の戦いが決定打となり、

壇ノ浦で平氏は壊滅します。

この平氏の滅亡により、西国や瀬戸内海海賊はすべて

源氏の支配となり、

源頼朝はその後、関東に「鎌倉幕府」を成立、

ここまでが平安時代と呼ばれる時代区分となり

そして時代は鎌倉時代へと進みます。

 

 

今回は以上です

ご愛読有り難う御座いました。