歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説・⑨ 江戸時代(初期②)~「鎖国」を少し視点を変えてざっくり解説


今回は

前回の

意外と知らない時代をざっくり解説・⑧ 江戸時代(初期①)~江戸幕府誕生から鎖国の成立と動機をざっくり解説

の続きとなります。

意外と「知らない時代」をざっくり解説シリーズ

よくご存じかもしれない時代ですが、

人気の「江戸時代」の中でも

初期の時代第2回「鎖国」を

少しだけ違う視点でざっくり書いていきます。

鎖国とは?

 

前回、鎖国成立のその動機に触れましたが、

その当初は、西洋の強力な武器を大名諸国が手に入れることを

徳川幕府は恐れまた、輸出入を強力に

支配する為に成立した経緯があります。

鎖国の全体像としては、

徳川幕府設立後、1603年から

第一次鎖国令が発令される間に様々な思惑や出来事があり、

徐々に私たちがイメージする「鎖国」

に近づいていくような印象です。

第一次鎖国令(1633)~第五次鎖国令(1639)

までの間に、その制限が強まっていきました。

徳川幕府は、まず始めに豊臣秀吉の「朱印状システム」

(海外に渡航するためには許可証が必要)

を踏襲して、これをそのまま制度化した経緯があります。

そして下記が後に「鎖国令」と呼ばれるものになります。

その内訳は

〇 1次鎖国令

朱印状に加え、老中発行の奉書をもつ奉書船以外の海外渡航禁止

海外に5年以上居住する日本人は帰国禁止

〇 2次鎖国令

1次鎖国令の再通達

〇 3次鎖国令

全ての日本人の海外渡航と帰国の全面禁止

外国船(オランダ中国船)の入港を長崎だけに限定

〇 4次鎖国令

貿易に従事しないまたは関係が無いすべてのポルトガル人の追放

(日本人との混血も含まれたそうです)

上記追放者以外のポルトガル人はすべて「出島」へ移送

〇 5次鎖国令

ポルトガル船の全面入港禁止

(島原の乱などの理由とされています)

なぜ強まっていったのかの理由を、ここからざっくり書いていきますが、

「鎖国」とは大凡このような形となります。

日本の代表的な輸出品だった「日本人傭兵」・「日本製武器」

 

17世紀当時、日本人傭兵や日本製武器は、

日本の輸出品・輸出の中でも代表的だったようです。

関ヶ原の戦いなどで主君を失った浪人武士は、

流浪の身となり、戦があれば駆けつけて収入を得るような

「傭兵」になった者が多数いました。

あの大坂の陣で集められた浪人達も、

多くはこのような身の上の人たちでした。

そして徳川幕府の成立後

戦のない世の中になったことにより、

彼ら浪人・傭兵の仕事は当然無くなります。

しかし、この当時、日本以外の海外の地域は

未だ多くの戦争が行われていていました。

関ヶ原直後・徳川幕府成立直後は、海外への渡航制限が緩く、

朱印船に乗ってしまえば海外渡航自体が簡単だった事もあり、

この傭兵達は、どんどん海外へ流れていきます。

これまで戦国だった日本の、よく訓練された屈強なこの兵士集団は、

流出先の海外、特に東南アジア諸国の政治状況すら一変させます。

また、この時九州平戸に商館があった東インド会社は、

このような日本製の武器や日本人傭兵を積極的に輸入していきます、

特に独立戦争後のオランダなどは、東南アジアの植民地拡大のための、

「軍備増強」が必要だったからです。

実は当初積極的に傭兵を輸出していた徳川幕府

 

しかし、日本国内にこのような「浪人」が沢山いれば、

徳川幕府にとって、大きな危険がありました。

その浪人達を海外へ輸出することは徳川幕府にとっても、

「危険緩和」のメリットがありました。

当時の平戸のオランダ船プラウエル司令官からバンタンの総督への報告書に、

「家康は好きなだけ日本人を海外へ送ることを認めた、日本人傭兵はいつでも手に入る」

との記述があります。

この時代、東インド会社などの

東アジア各地域における植民地活動は、

実は日本人傭兵や日本産の武器に大きく依存していました。

「よく訓練され」・「安い賃金で扱える」この屈強な日本人傭兵達は、

もはや「無くてはならない存在」にすらなっていきます。

この時オランダは、このような背景もあり、

東シナ海からスペイン・ポルトガルを排除する

目的と、この地域の利権を一気に獲得しようと動き出し、

そして1621年頃、九州平戸を母港とする艦隊が編制されます。

さらには、イギリス・オランダ・日本の連合軍で、

当時スペイン領だった、マカオを滅ぼす計画を立て徳川幕府に要請します。

徳川幕府による武器輸出禁止令

 

徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は上記、

イギリスオランダ日本の連合軍の申し出を「拒絶」します。

さらには、1622年7月頃、

傭兵などを含めた人身売買・海賊行為の厳禁を命じます。

このイギリス・オランダとスペインの覇権争いをうけ、

そのどちらかの勢力などに、反徳川幕府の浪人・傭兵たちが、

結びつくのを恐れた為と言われています。

これまで日本の武器や傭兵に依存していたオランダなどは、

この「要請拒絶」に衝撃を受けそして困惑します。

再三、日本側に輸出の許可が得られるよう懇願しますが、

この禁止命令は日本国内で徹底される事になります。

この時の、人身売買・海賊行為の禁止令は、

後の「鎖国」の原型ともなっていきます。

一方、この禁止令前に海外へ渡航していた、

傭兵や日本人達は、すでに広範囲のアジア各地に渡っていて、

このような日本人傭兵の中でもスペイン艦隊を撃退した

シャム(タイ)の日本人傭兵、

「山田長政(1590~1630)」などは有名な人物です。

徳川幕府が禁教令(キリシタン)に至った経緯とは

 

まず発端の1つとしては関ヶ原で、

「東軍」に従軍していた、「キリシタン大名」の

九州肥前国日野江藩初代藩主、「有馬晴信」は

家康の朱印船の許可を得て、海外貿易に従事していました。

4人の少年を中心とした使節団をローマに、

派遣した人物としても有名な大名です。

1608年この晴信の朱印船がマカオ市民とトラブルになります。

このトラブルの鎮圧にマカオの

ポルトガル人総督「アンドレ・ペソア」が介入し、

日本人60人以上が殺される事件が起こります。

有馬晴信はこの報告を受け、

アンドレ・ペソアが長崎に来港していた時、

「捕縛」すべく家康の許可を得て、ポルトガル船を攻撃、

この時アンドレは激しく抵抗し、

火薬庫に火を放ち、自らの船を爆沈させて自害します。

晴信はこの「事件解決の恩賞」として、

旧領の回復(龍造寺家に奪われていた領地返還)を幕府に訴えます、

この件を受け持ったのが、

この事件時、晴信の監視役を務めていて、

家康の側近・本多正純の家臣で、

同じキリシタンでもあった、「岡本大八」と言う人物でした。

この事件の際の恩賞を、徳川家康に「斡旋する」と偽って、

多額の賄賂を晴信から受け取ります。

・・結果、この詐欺行為は露見し、

両名とも幕府に有罪判決を受け処刑、

この事件がきっかけとなり、徳川幕府の重臣の中にも、

多くのキリシタンがいる事が発覚します。

これまでキリスト教に対し、比較的寛大で、

「弾圧」と呼べるような政策はとっていなかった幕府ですが、

この時分のキリスト教は、

幕府の支配体制に組み込まれることを拒否している上、

その活動は日々活発化しており、

過去の事例(スペイン+宣教師=日本を植民地にしようとしたなど)や

イギリスやオランダの忠告・神仏勢力の抵抗活動もあった為、

ついに将軍秀忠は「キリシタン禁教令を発令」します。

こうして「鎖国」に繫がった

 

この上記「禁教令」もまた徹底され、そして

多くのキリシタンや宣教師達が弾圧され、火あぶりなどにされました。

上記没収された旧有馬家領地の後任藩主・松倉家の、

激しい弾圧と圧政に耐えかねた農民や宣教師らが起こした大規模な反乱、

あの「島原の乱」の勃発、それに伴う

ポルトガルやスペインの軍事介入の可能性、

同年頃のポルトガルの独立戦争など、

この時の、様々な事情・背景から幕府は、

まず1633年、3代将軍徳川家光により、

玄関口だった、長崎港の統制を強め、

より強力に国内を支配する為に、

ついに海外渡航禁止などの通達を出します、

これが「第一次鎖国令」となります。

しかしその後も、布教を諦めようとしないスペイン・ポルトガルは、

貿易相手として除外されていきます。

またその時分、経済活動に強引な手法を取っていた

イギリスも貿易相手から除外されるようになり、

日本に対して積極的な活動に制限をして、

貿易のみに従事するオランダのみを

唯一の貿易相手とし、このように「5次鎖国令」へと

繫がっていきます。

 

今回はここまでです

有り難う御座いました