歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説・⑧ 江戸時代(初期①)~江戸幕府誕生から鎖国の成立と動機をざっくり解説


今回は

前回(意外と知らない時代をざっくり解説・⑦(番外編)~違う視点から見た室町時代~戦国・安土桃山時代)

の続きとなります。

意外と「知らない時代」をざっくり解説シリーズ

よくご存じかもしれない時代ですが、

人気の「江戸時代」の中でも

初期の部分(江戸幕府誕生~鎖国の成立と動機)を

少しだけ違う視点でざっくり書いていきます。

江戸幕府の成立

 

ご存知1598年に

かの豊臣秀吉が没します。

1600年

豊臣政権を維持したい石田三成と

政権の奪取をねらう徳川家康との権力闘争

「関ヶ原の戦い」で徳川家康の勝利に終わったことは

有名な話です。

この戦いにより、結果石田三成は斬首され、豊臣家は大名に格下げ、

徳川家康は1603年征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開きます。

この1603年からの約260年間を「江戸時代」といいます。

その関ヶ原の結果、徳川家は、

豊臣家の220万石の所領の大半を接収し、

関ヶ原で東軍(徳川方)に味方した分配しました。

取り潰された、西軍・西国諸大名の家臣などは「失業浪人」になりました。

しかし、この時依然として

豊臣家は大阪を中心に65万石の勢力を維持しています。

関ヶ原前後のヨーロッパは

 

まず日本の関ヶ原前後の世界も激変の時代で、

この時ヨーロッパでは、スペイン中心の

その勢力図も大きく入れ替わりました、

オランダなどの台頭が有名なところです。

カトリック教会(イエズス会など)の後ろ盾であったスペインですが、

支配下に置いていた、オランダに対する

主教的価値観の違いによる、圧政や弾圧などの背景もあり、

「オランダが独立戦争」(1568~1648)を起こし

各地でゲリラ戦を展開します。

同じくスペインの圧政や弾圧を受けていた

イギリスもその独立軍を支援します、

この時スペインは、このような事情から、

そのイギリスを130隻の大艦隊(無敵艦隊(アルマダ))

で征服しようとしますが、この戦いの結果、

スペインはイギリス側の夜襲などにより、

このアルマダの海戦に大敗北し、

(1588年のスペイン無敵艦隊の壊滅的敗北)

大きくその力は衰退していきます。

代わりに、当時新興宗教であったプロテスタントや、

オランダ・イギリスがヨーロッパで台頭していきます。

この時、スペインの支配から解放されたイギリスは、

西のアメリカ大陸へと勢力拡大に向かい、植民地を建設(13植民地)します。

これが現在のアメリカの母体となります。

八重洲の由来のヤンヨーステン

 

日本が初めて客観的正確な世界情勢を

知った瞬間と言われる出来事があります。

ヨーロッパ勢力変動時の

この時、一方のオランダは、香辛料などを求めて

アジア方面へと勢力拡大に向かいます。

そして1600年~1603年に

あの有名な東インド会社が設立されます。

(1600年イギリス東インド会社・1603年オランダ東インド会社)

この時の「インド」とはヨーロッパ、

地中海沿岸地方以外の地域を指します。ちなみに、

オランダ東インド会社は、「世界初の株式会社」として有名です。

大規模な商船隊を編成・組織して

当時スペイン(属国となっていたのポルトガル)の

支配下のあった各地の貿易港・拠点などを次々と奪取します。

このような背景の中で、日本では関ヶ原の戦いの直後、

5隻のオランダ商船が世界周航を目指します。

大西洋→南米大陸→太平洋を横断中に船団は悪天候などにより離散し、

その内の1隻は日本・九州の臼杵に(佐伯湾の大入島とする説もある)漂着します。

徳川家康の命により、商船の武器や荷物は接収され、

船長のウイリアム・アダムスと航海士のヤンヨーステンは

この時大阪まで護送されます。

当時イエズス会宣教師(カトリック教会)はスペインの後ろ盾の中、

日本を植民地にする目的と意図があり、

カトリック教会(スペイン)に都合の悪い世界の正確な情報は、

もちろん日本には伝えられていませんでした。

この時、護送された2人をイギリスやオランダ人は

海賊だから処刑すべきだとの

イエズス会宣教師達の主張を退け、

(偏ったイエズス会の情報にすでに家康は気が付いていたとも言われる)

家康は、2人を尋問・会見した結果、

「すぐに外交顧問」として採用します。

この時分の2人の世界情勢変動・スペインの圧政

無敵艦隊の敗北などの報告は、

イエズス会宣教師達の口からは当然聞けないような、

「客観的で正確な情報が日本に伝えられた瞬間」とも言われています。

家康は、2人に武士の地位と「朱印状」を与え、

東アジアの貿易などに従事させます。

イギリス人のアダムスは三浦按針と呼ばれ、

上記アルマダの海戦で、実は航海士として従軍しています。

ヤンヨーステンは「耶楊子」(やようす)と呼ばれその屋敷跡に

由来して名づけられた地名が

東京駅東口方面の地名「八重洲(やえす)」となります。

豊臣家滅亡の背景

 

1611年後水尾天皇の即位式を名目に

家康は天下人となるはずだった、

秀吉の遺児、豊臣秀頼に京都二条城で会見を申し入れます。

当然天下人のプライドがある豊臣家です、この様々な思惑の中、

加藤清正などが間に入り、会見は「対等な形」で行われます。

この時、秀頼が毅然とした態度で家康に礼儀を尽くし

その家康を関心させ「秀頼は賢き者なり」とまで言わせた、

この会見は有名な話ですが、実は・・・この裏で、

豊臣家はイギリス・オランダに大砲や大量の硝石を

大量に発注しています。

当然この事情に気がついていたであろう家康は、

当然ながら豊臣家が存続する限り、

徳川家の安泰はないと思うでしょう。

もちろん秀頼が関白に就任して、

反徳川連合勢力や包囲網を作る可能性もあるでしょう。

このような背景もあり、

あの1614年の鐘銘事件(しょうめい)が起こります。

方広寺の再建(地震で倒壊)に当たり、

(家康のすすめで豊臣家により再建された大仏殿です)

その鐘の「国家安泰 君臣豊楽」の銘文が

家康の文字を分断して豊臣の楽・安寧を祈願したものだと

言いがかりをつけた有名な事件です。

この事件を口実として家康は

豊臣家に受け入れがたい条件を突きつけます。

①秀頼は大阪城から退去すること

②秀頼は家康に臣下の礼をとること

③大阪城に集結している浪人10万人を追放すること

などです。

当然この条件は、受け入れられることなく、

家康の挑発に乗った形となった、豊臣家と徳川家の戦い

「大坂冬の陣」が勃発します。

ちなみに、この時家康があの東インド会社に発注した

大砲をモデルに(カルバリン砲など)

国産第一号と言われる大砲(芝辻砲)が制作されています。

(現在東京靖国神社の遊就館に展示されているそうです)

昼夜問わず、大砲による砲撃などが

大阪城に繰り返されますが、

当時の大砲は爆発しないため、

弾が直撃しない限りは被害は軽微です。

なかなか大阪城は落城しませんでしたが、

この時、ある2発の砲弾が天守と淀君の居室を直撃します。

目の前で侍女数名が即死したのを目の当たりにした淀君は、

その2日後・・・

①大阪城の「外堀」を埋め立てる

②集まった浪人達を解雇する

上記2点のみ受け入れる形で和睦に応じますが、

この時大阪城は、またも家康の計略により、

外堀だけでなく「内堀」まで埋め立てられ無防備にされます。

このことに気がついた豊臣方は、

すぐに浪人達を再度終結させますが、

時すでに遅く、翌年の大坂夏の陣で

大阪城はすぐに落城してしまい、豊臣家は滅亡します。

世界の戦いの形が変わった

 

大坂の陣、アルマダの海戦などで

大きくその力が発揮されたのが、

「大砲」・「武器」の力です。

アルマダの海戦では、無敵艦隊は軍艦装備用の

小型の大砲カノン砲が主流でした、

接近専用大砲ともいえます。

一方長距離砲のカルバリン砲を中心としたイギリス艦隊は、

無敵艦隊の接近戦術を見通して無敵艦隊の射程距離外から砲撃しました。

西洋の戦いの中で特に大砲が発達したのは、

城塞が石の城であった為と言われています。

大坂の陣でもアルマダ海戦と

同じようなことが起こっています。

大坂豊臣側の仕入れた大砲は、当時主流だった

短距離砲の「カノン砲」ですが、

一方の徳川方は、

長距離用の「カルバリン砲」などを配備しています。

大坂城側からは、家康の陣まで砲撃が届きませんが、

家康の陣からは、大阪城に砲撃が届きます。

当時このような戦いは世界各地で行われ、

オランダ独立戦争以降、世界の城塞建築は大きく変わったとされます。

よくあるイメージの、「垂直の石の壁の西洋城」は時代遅れとなり、

砲弾を吸収するように土を盛った城壁になったり、

大砲などの包囲に対するため、

星形の城郭が作られたりしました。

日本では、この形は幕末あたりまで登場しませんが、

函館の「五稜郭」が有名です。

日本お城は政庁として変わっていった

 

大坂の陣の跡、

家康は「一国一城」との命令を出し、

城の建設を制限します。徳川幕府のもとで天下統一され

戦がなくなった日本では、

お城は軍事施設ではなく、政庁などの役割に変わっていきます。

戦国時代中期の「居館や山城」を除く、

現代よくあるイメージの、「石垣があって天守がある」ような

織田信長の、安土城建設以降の近世城郭は、

戦国末期から江戸時代初期の間に築かれたもので、

あわせて約3000ほどの城が造られましたが、

この時、一国一城によりこのような城は

全国で一気に170城ほどまで激減します。

鎖国の本当の動機とは

 

一国一城・武家諸法度など

江戸幕府の地盤を固める一方で

当然と言えば当然ですが、

大坂の陣などで、徳川の勝利のポイントともなった、

西洋の強力な武器を大名諸国が手に入れることを

徳川幕府は恐れました。

その為徳川幕府は、貿易をその管理下に置く必要があり、

輸出入を強力に支配する必要がありました。

これが「鎖国」最大の動機とも言われています。

徳川幕府は、豊臣秀吉の「朱印状システム」

(海外に渡航するためには許可証が必要)

を踏襲して、これをそのまま制度化します。

この徳川の朱印状は、

九州の諸大名や外国商人などに発行されます。

その渡航先・貿易先の範囲は意外と広く、

ルソンや(フィリピン)ベトナム・シャム王国(タイ)・アユタヤ朝・マラッカ

などアジア各地に及びました。

ちなみに、豊臣秀吉の政策の中で

「刀狩り」は有名な政策ですが、実は農民だけではなく同時に

海賊集団にもこの刀狩りは適用され、

当時存命時の秀吉に対抗できる海賊衆は存在せず、

「日本海賊」はこの時に滅亡したことは、

実は余り知られていません。

 

 

今回はここまでです

有り難う御座いました。