歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ③~小野妹子~のその後


今回は

歴史上その後シリーズ③~小野妹子~のその後をしたためていきます

小野妹子といえば


小野妹子・・・・

皆さんは「おののいもこ」はご存じでしょうか

まあ有名なので聞いたことはあると思います

ちなみに「男性」です

小野妹子は現滋賀県大津市(近江国滋賀郡小野村)出身で飛鳥時代の人

豪族で高貴な身分では無かったがその優秀さで台頭した人物

遣隋使(けんずいし)


小野妹子は実際になにをやった人か?というと

かの有名な「聖徳太子」と「推古天皇」に任命されて

当時の中国あたりの「随」という国に国書を渡しに行った、まあ外交官です

「遣隋使(けんずいし)」は有名では無いでしょうか。

当時の日本は中国の属国のような扱いで

特に中国方面周辺の国からは日本は格下に思われていた時代です。

その中で聖徳太子は「対等」国書で宣言して

「中国の冊封体制から外れて独立の日本」を目指したのです。

遣隋使の結果は?


 

結果として

日本の天皇=中国の皇帝=(対等)はここから始まっていると言ってもいいので

日本国で言う最も重要な国書だったとも言えます

その後、隋も日本の「天皇」を認めたため聖徳太子の「独立の日本」は完成したと言えます。

もちろんこの国書には聖徳太子の戦略もありましたが

隋は当時、朝鮮北部を領土とする高句麗との戦争にてこずっていて

その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておきたいはずと

日本側はこの戦略の成功を確信していたと言われてます。

 

 

煬帝を怒らせた国書


でもこの内容・・まあ普通

怒りますよね・・

「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」で有名なこの国書

意味は

「日の昇る国の皇帝(日本の天皇)が日の沈む国の皇帝(隋の皇帝)に手紙を送るよー変わりは無いかい?」

みたいな・・

格下と思ってる相手からの、突然の対等宣言。

そんな内容の手紙を持って、使者として隋の皇帝に渡しに行ったのが

遣隋使リーダーの小野妹子です

まあ案の定・・中国・隋の煬帝は「激怒」

「野蛮な国の者がこんな無礼な手紙をよこしやがった。何か言ってきても無視しろ!」と

いったそうです。

(下は煬帝)

まあ・・大変 ・・

一応、小野妹子はその場をなんとか取り繕い隋の皇帝より

なんとか「返書」を頂きますが

その内容がまあ・・。 お察しの通り

日本を臣下扱いする内容+日本を激しく非難の内容。

とても皆に見せられない。

さて、リーダーの小野妹子は困り果て。

・・・・考えます。

そしてひらめきます。

当時の百済(朝鮮)あたりで、ざっくりと

「返書無くしました!」

とゆうことに。(これは聖徳太子と相談したなど各説あります)

まあ推古天皇もこれを察したのかこれも、計算内なのか・・、

通常この失態は、かなりの重罪の扱いですが

小野妹子は形だけの流刑で、その後すぐに許されます。そして

また遣隋使として派遣されます。

まあこのように色々あって日本の国際上の独立は完成したのです。

ここまでが皆さんがおそらく知っている小野妹子ですね。

小野妹子のその後


 

さて本題

その後小野妹子はどうなったかというと

まず「遣隋使」としての任務を評価されて

冠位十二階(聖徳太子の帽子の色で偉さが違うあの仕組みです)

の中でも「大徳」という臣下最高位の位を授けられます

ちなみに帽子の色はです

その後、妹子が行った2回目の遣隋使には

「倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)」など

8人の留学生や留学僧がおり、その人たちが30年間くらい勉強し

日本に帰国後「大化の改新(たいかのかいしん)」で活躍するという原動力になりました。

引退後の小野妹子


晩年は出家し出家して小野専務(おののせんむ)を名乗りました

使えていた聖徳太子が創設したと言われる

六角堂に入って仏前に献花することを欠かさなかったそうです。

ちなみに六角堂の北側は、聖徳太子が沐浴した池の跡と言われる場所で

その池の隣の僧侶の坊(住まい)が池坊(いけのぼう)と呼ばれるようになり

現代の華道の池坊流の名の由来となり

小野妹子は「華道の祖」とも呼ばれることがあるそうです。

これは明確では無いですが、

「小野小町」は「小野妹子」の子孫とも言われます。

小野妹子の墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社南側にある小高い丘の上にあります

その後の小野妹子の子孫のお話は沢山ありますが

まあ。小野妹子としては今回はこんな感じですね

それではまた次回!

では。