歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ②~坂本龍馬の海援隊~


 

今回はあの「坂本龍馬」でおなじみ

「竜馬」は通称で、坂本直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)と言います。

海援隊のその後をしたためていきます

「海援隊」とは


海援隊とは、日本最初の株式会社とも言われていて

長崎の亀山社中(かめやましゃちゅう)が前身となります

(長崎の亀山社中)

亀山社中は薩摩藩から資金提供を受け、武器の調達や物資運搬

などで利益を得ていた組織ですが

1867年4月に「株主」を土佐藩にかえ、土佐藩直属の組織として

「海援隊」として再編成されました。

(竜馬たちが使っていた亀山社中の中庭の井戸)

 

 

 

海援隊の活動


海援隊は海外開拓などの志があればだれでも参加できる

当時は貴重な組織で

現代の商社のような意識で活動していました

(海援隊・亀山社中の神棚)

海援隊の活動期間は

亀山社中時代を入れても1865~1868の活動期間

3年余りと意外と短く、その短い期間の間に

かの有名なグラバー商会などに出入りしたり

日本初とも言われる、蒸気船同士の海難事故

「いろは丸事件」などは、現在の貨幣価値に換算して164億円に相当する

賠償金を紀州藩に支払わせたことも有名です。

また、武器の仲介で長州と薩摩を結び付けたりして

薩長同盟に大きく貢献したのは

皆様もご存知のことだと思います。

(竜馬直筆の手紙)

竜馬暗殺後の海援隊


そして・・・

1867年11月15日に

あの「竜馬暗殺事件」がおこり

海援隊はその絶対的指導者を失うことになります。

(下は竜馬が履いていたブーツ)

1867年4月に亀山社中から海援隊ですので

私たちが知っている「竜馬=海援隊」としては

7~8か月くらいの期間だったんですね。

ここまでが「有名な海援隊」ですよね・・・・。

「海援隊」その後


それでは本題

その後「海援隊」はどうなったのか・・・です。

陸奥陽之介(宗光)(のちの外務大臣)や沢村惣之丞などを

中心とする海援隊の残った隊士たちは、「竜馬暗殺の黒幕」を

「いろは丸事件で因縁のある紀州藩」とし

竜馬と一緒に暗殺された「中岡慎太郎」の陸援隊隊士とともに

京都の天満屋を襲撃し、紀州藩士を襲ったが

事前に察知されており、

新選組を警護につけていた事などから取り逃がしてしまい

襲撃は未遂に終わります。

その後幕府から大政奉還が実行され、「王政復古の大号令」が発布されると

「海援隊は」明治新政府に属して戊辰戦争を戦うことになります。

(新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦)

 

2つに分かれた海援隊


戊辰戦争 この時はすでに海援隊は、

竜馬の秘書や書記官を務めていた、

長岡謙吉ら「京都班」と

菅野覚兵衛らの「長崎班」に分かれて活動していて、

「長崎班」は戦争などで一時無法地帯に陥っていた長崎の治安維持などに貢献し

その後は長崎遊撃隊と合流し、「長崎振遠隊」を結成

奥州地方などへ転戦していきます。

(長崎振遠隊の石碑)

「京都班」は海援隊の海軍力を駆使し、瀬戸内海などに出撃し

様々な戦果を挙げます。

京都班の長岡謙吉はその後、土佐藩より新しい「海援隊隊長」に任命され

その後明治新政府のもとで海軍創設を目指して政府に建白書を

提出するが、新政府に認められなかったそうです・・。

(長岡謙吉石碑)

 

海援隊の終焉


 

新政府に認められなかった海援隊

その後は海援隊を離れ新政府に仕官する者も多く

竜馬のいない「海援隊」はその求心力を徐々に失い結束が緩んでいき

各地に分散して活躍していた「海援隊」は事実上の分裂状態となり

1868年 閏(うるう)4月に 海援隊は藩命により解散となります。

 

これが竜馬暗殺より半年ほどでおこった出来事です。

 

そして解散後に残った、

船や水夫たち・商いの志は

竜馬の旧友だった「岩崎弥太郎」が譲り受け

その岩崎弥太郎はその後海運業で大成功をおさめ

現在の「三菱」~ へと、つながります。・・

(海援隊の集合写真)

 

ざっくりと書きました海援隊のその後でした

それでは!また次回お会いしましょう

ご愛読ありがとうございました。