歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ ①  徳川慶喜


 

新シリーズとして、有名な出来事・人物・建物などのその後

今回よりシリーズ化を初めてみました。 

記念すべき本シリーズ第一回は・・ 最後の将軍・徳川15代将軍

「徳川慶喜」

の その後を書いていきたいと思います。

まあ結構有名な話なので知っている方は多いかもしれませんが

気にせず書いていきます。

「大政奉還」の後ですね

慶喜公がその後どうなったか・・・

あの後(大政奉還の後)、二条城や大阪城を転々とし軍艦で江戸にもどり

上野の寛永寺で、蟄居(家の中にとじこもって外出しないこと (謹慎))

処刑されることなく謹慎のまま「実家の水戸にもどった」そうです。

その後、徳川家の処遇が「駿河」(今の静岡県)に移封が決まると

そのまま駿河に移住したようです。

その慶喜についって行った旧幕臣たちで有名なのが「勝海舟」などですね

「静岡のお茶畑」「日本初ワイン」の始まりなども勝海舟とも言われています

が、その話は別の機会に・・・。

慶喜公が謹慎を解かれたのが、なんと31歳

そのまま31歳の若さで~隠居生活~に入ります

慶喜公が多趣味だったのは有名で

潤沢な隠居手当を元手に

「油彩画」 ↓慶喜公 が書いたとされています

「写真・カメラ」 ↓は徳川慶喜公撮影の写真

 

そのほか「狩猟や投網」「弓道」「自転車」なども

自転車に乗る慶喜公 (下)

など多くの趣味があったそうです

有名な逸話としては

「顕微鏡」でのぞく観察の趣味もあったらしく

ある日「きな粉」をのぞいてみたら、「虫」 がいっぱい潜んでいて

それ以来、「きな粉」を食べれなくなった。なんて逸話もあります。

妾(めかけ)達との間には 男10人 女11人もの子供をもうけたそう・・・・。

その間、政治的野心はなく、旧幕臣ともかかわりをほとんど持たず

また、旧幕臣に貧困者も多くいましたが

あえて一切気に掛ける様子も見せず、世間から誹りを受けることもあったそうです

まあ、没交渉を貫き、争いを避け平和を唱えたとも言えます。

(旧幕臣などとの逸話やエピソード多々ありますが割愛)

明治21年に従一位に叙され、その後明治30年に

「東京の巣鴨」に移住

明治31年に天皇陛下に謁見が許され、天皇皇后から厚いもてなしを受けたことで

「生きてきたかいがあった・・」

したといわれています・・。

その後 徳川家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され

「貴族院議員」に就任、その2年後に7男の慶久に家督を譲り隠居。

大正2年(1913年)に風邪が元で急性肺炎を併発し

最後は眠るように、77歳の生涯を終えたそうです。

末期の床では渋沢栄一氏が編集した自らの伝記「徳川慶喜公伝記」の原稿を読みながら過ごし、穏やかなものだったと伝えられています。

晩年の慶喜公

 

ちなみに、幻の16代将軍

「徳川 家達(いえさと)」と言います。

(御三家田安徳川家当主・徳川宗家16代当主)

貴族院議長を30年も務められたそうですよ

シーメンス事件(ドイツの会社と日本軍高官のわいろ事件)という事件がきっかけで

そのときの首相(山本内閣)が総辞職

首相の後継として正式に候補とのお話がありましたが

徳川家の一族会議で 「いまだ徳川は表立って政治にかかわるべきではない」

との一族会議の結論の結果

幻の16代将軍「徳川 家達(いえさと)」は首相就任を断ったそうです。

もしこの時就任していたら・・・・

約50年ぶりに徳川政権が復活していた?

・・かもしれません。

 

さて今回はここまでにしたいと思います

ご愛読感謝します。

また次回!その後シリーズ第2回でお会いしましょう