歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ③~伊達政宗~のその後


 

今回はあの 独眼竜伊達政宗のその後についてしたためていきます

伊達政宗といえば

「奥州の王」や「独眼竜」とも呼ばれる英雄ですよね

表では62万石 裏では100万石以上といわれる仙台藩の藩祖

今回もスポットを当てるのは有名なエピソードの後です

とは言え

ざっくりとですが、伊達政宗のエピソードを書いていきます。

伊達政宗といえば


伊達政宗[1567~1636]仙台藩の藩祖。輝宗の長子。幼名は梵天丸。

政宗幼名や青年期のころに父母子・兄弟の話で

有名なエピソードがいくつかありますね。

母の義姫が片目の醜い政宗を忌嫌うことから始まり、「母+弟」VS「政宗」とか

父・伊達輝宗を拉致して逃走した畠山義継を、追撃した政宗が、父もろとも義継を銃殺した話などは聞いたことがある人も多いかもしれないですね。

政宗が生まれた・・1567年といえば 織田信長が美濃を制圧したり、その翌年には足利義昭を擁して上洛をはたしたりした時期です。

織田信長により天下の形成が固まってきた時期に生まれ

家督を継いだのは1584年、

その織田信長の最後「本能寺の変」のなんと2年後です

1588年頃には、佐竹義重,蘆名義広,相馬義胤らと対戦,翌年蘆名義広を破り,黒川城に拠って陸奥,出羽を平定

その1588年で有名な出来事といえば、豊臣秀吉の刀狩があった年です。

政宗が実質的に「奥州の王」となった頃には

もはや豊臣秀吉が天下統一したあたりです

1590年に天下人・豊臣秀吉にやむなく降伏し

会津・岩瀬・安積 (あさか) 郡などを秀吉に没収されました。

その秀吉とのエピソードも多々ありますよね。

その後の関ヶ原の戦いには徳川方に属して上杉景勝と戦い,1603年に居城を仙台に移し,

また、大坂の陣にも徳川方として参戦,秀忠,家光の信任を得て

仙台藩 62万石の基礎を築きました。

1613年にはローマやスペインに家臣の支倉常長らを派遣

(支倉常長)

諸外国に「奥州王」として南蛮貿易を試みたが

徳川幕府の切支丹(きりしたん)禁制強化のため目的を達しなかった・・。

まあ・・ここまでは有名なお話かもしれませんね。

政宗は、豊臣政権下は豊臣大名そして徳川政権下徳川大名としておとなしく振るまうが、

領国の経済と軍備整備、支倉常長のローマ教皇庁派遣などを見ると

天下への思いは失っていなかったと見られていて、

隙あらば天下を手に入れんと幾度と無く画策していたようです、そのせいもあってか

「伊達政宗は10年20年生まれるのが早かったら・・」なんて聞いたことあるかもですね

ちなみに、かの有名な真田幸村・立花宗茂 も政宗と同じ1567年生まれです。

「なぜ独眼竜か?」


そう言えば、「なぜ独眼竜か?」ですが、

幼少時に疱瘡(天然痘)にかかり右目を失明した為で、

独眼竜とは江戸時代に頼山陽がつけたあだ名で、異称は在世当時のものではないそうです。

初例は中国後唐の太祖李克用で、隻眼の英傑に対して与えられることがある異称です

彼が片眼であったことは当時も有名でしたが、

本人はこれをコンプレックスにしていたらしく

肖像画はほとんど両方とも健眼に描いているそうです

実はイメージの強い、「眼帯」や「布」を目につけていた事は

記録には残っていないそうですよ。

「伊達男」


そして伊達政宗といえば 「伊達男」

自らの部隊の戦装束が、他とは一線を画して絢爛で派手な戦装束であったことから

派手な着飾りをする者全般が「伊達男」と呼ばれるようになったらしいです。

「伊達巻」の語源もこのあたりと言われています。

ちなみに・・・・

伊達政宗の鎧兜は、あの「ダースベーダー」のマスクのモデルになったそうです。

伊達政宗のその後1


まあざっくり長々と紹介しましたが

さてここからが本題

伊達政宗のその後ですが・・

まあ今回は大坂の陣1615年の後あたりからですかね?

大坂の陣の後あたりはもう政宗もう

50代

徳川家により天下も統一され天下泰平。

このあたりから現役を離れ花鳥風月に親しむ時を過ごしたようです

春には仙台城の桜、初夏には鳥の声を求めて山野に遊び

秋には月を眺めて歌を作り悠々と日々を過ごしたようです

また、埼玉県の久喜に家康から鷹場をもらっていて江戸から仙台に帰るときには

必ずここで鷹を放っていたそうです。

この頃、政宗の詠んだ詩には

「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」

訳すと

馬上少年過=戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去り
世平白髪多=今や天下は泰平 自分の髪の毛はすっかり白くなった

残躯天所赦=何の因果なのか、戦国の世を生き延び生き残ったこの身である
不楽是如何=老後くらい好きに楽しまないで、どうするのだ

天もきっとこれをお許しになるだろう。

とまあこんな感じのようです。

一説には「もう天下を獲る気はない」と徳川幕府に警戒されないように

詠んだとも、言われていたり、

純粋に年をとって、過去を振り返り、

合戦と領国経営明け暮れていた事を

しみじみ感じていたからとも言われています。

伊達政宗のその後2 隠居後~


 

1627年には隠居(政宗61歳頃)

仙台城近くの若林屋敷にを隠居場所としたようです

若林屋敷跡地

隠居後も起床は毎朝6時ごろで規則正しい生活を

過ごしていたようです。 が・・

実はたまに寝坊していて「あと1時間寝かせろ」

と時間を告げる役の部下に指示することや

早起きした時にも、定時の6時までは布団から出ないようにしていたことから、

またまた時間を告げる役の部下に「やっと6時か待ちわびたぞ」なんて言ったり

少し人間らしいエピソードが多々あるようです。

政宗の隠居中の生活サイクルは、6時起床の後

朝食の献立の気に入らないところを変えたり、

小姓や奉行衆に1日の仕事の指示したりして

行水後(浴槽には浸かっていたようです)、9時半~10時半ごろようやく朝食

前日に決められた毎日違う顔ぶれの家臣と相伴して( 連れ立って行くこと。その連れの人)公用をこなし、

午後2時ごろに公用が終わると相伴衆とともに夕食。

なんと、起床から、この時までに何度も着替えたり髪を整えたりしているようです(大変ですね)

隠居といっても公用をこなし、暇を見ては本を読み詩や歌を詠み

かなり勤勉な性格であったとの記録が残っています。

このあたりの、中央政権(徳川幕府)と政宗の関係ですが

「2代将軍秀忠」が、隠居後江戸城に政宗を招き後事を託した事から

続く「3代将軍家光」にもかなりの信頼をされていたようで

家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたそう。

1632年2代将軍秀忠が亡くなって諸大名が江戸城に集まった時も

3代将軍家光が「もし私の代わりに将軍になりたいものがいたら遠慮なく申し出よ」

と言ったとき誰も声を上げない中。

政宗は一歩前に出て

「今天下のもので徳川3代の恩恵をこうむらないものは一人もいないはずであり、万一異心のものがいたら、私めにお申し付けくさればさっそく兵を率いてこれを征伐しましょう」

と言ったそうです

当時66歳だった政宗の中央政権における実力は抜きんでていたようです。

その後・・、政宗は1636年江戸の桜田屋敷(現・東京日比谷公園内)で亡くなったとされています。

死ぬ直前、髪を整え、トイレに行った後、「自分の死後誰かれと部屋に入れるな」

と命じて再び床につく時、西に向かって合掌して横になったと記録にあり

死因は食道がんによるがん性腹膜炎とされています。

享年は70歳だそうです。

ちなみに余談ですが

1974年(昭和49)瑞鳳殿再建工事の際の墓・遺骨調査によれば、

政宗の身長は159.4センチメートルで、同時代の日本人の平均身長を示したそうです。

瑞鳳殿(伊達政宗の墓)

まあ 伊達政宗の「その後」はこんなところです

ではでは!! 今回はこのあたりで

また次回お会いしましょう。