歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説・⑩ 江戸時代(中期①)~赤穂浪士の討ち入りと元禄文化


今回は

前回の意外と知らない時代をざっくり解説・⑨ 江戸時代(初期②)~「鎖国」を少し視点を変えてざっくり解説

の続きとなります。

意外と「知らない時代」をざっくり解説シリーズ。

よくご存じかもしれない時代ですが、

人気の「江戸時代」の中でも

中期(1700年前後~1800年前後頃)の時代の

第1回として、「赤穂浪士の討ち入りと元禄文化」を

少しだけ違う視点でざっくり書いていきます。

松の廊下でのあの事件

1701年の3月

下向した勅使(勅旨を伝えるために天皇が派遣する使者)対して、

時の将軍、徳川綱吉が、奉答する儀式が行われる予定でした。

赤穂藩主、浅野長矩がその勅使の「接待役」に抜擢、

その「指導役」として、あの吉良上野介がいました。

事件はその時おきてしまいます。

突然江戸城・松の廊下にて、

浅野氏が「あの時の遺恨覚えたるか!」と叫びながら、

刀を振り上げ、吉良氏に斬りかかります。

周りにいた人たちが、浅野氏を抱き止めて、騒ぎは一旦収まります。

この事件に対し、大変激怒したのが、将軍綱吉、

台無しだと怒り狂って、事件の真相もよく調査せずに、

即日、浅野氏に切腹を申しつけ、

赤穂藩も、そのままお取り潰しとなります。

そしてこのまま事件の真相は、浅野氏切腹のため、闇の中。

吉良上野介は、無罪放免となります。

原則の裁き喧嘩両成敗がなかったため討ち入りがおこった?

当時

刃傷沙汰が起こった場合、幕閣がよく調査してから、

裁きが下るのが、通常でした。

それが喧嘩の場合は両成敗となります。

赤穂浪士たちは、度々、幕府に両成敗の公平な裁きと、

お家再興を訴え続けますが、

それも叶わないばかりか、追い打ちのように、

浅野氏は大名から、浪人の身分に落とされ、

お家再興は、事実上完全に閉ざされます。

さらには、改めて吉良氏は無罪判決の沙汰となり、

これに対し、不公平だと激怒したのが、

当然ながら、残された赤穂浪士たちです。

こうして、あの有名な「忠臣蔵」、

赤穂浪士の討ち入りが起こるのです・・。

・・因みに

この有名な事件があった、この1701年ですが、

同年、日本では、

あの水戸黄門で有名な「水戸光国公」が亡くなったり、

世界では、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ、

スペイン継承戦争(1701~1714)が勃発しています。

好景気だった元禄時代と豪商たち

 

元禄時代と言えば、

日本の東・西に、多くの豪商が現れたのが特徴的です。

紀伊国屋文左衛門・淀屋辰五郎・奈良屋茂左衛門・三井高利・・。

など、現在にもつがるような、様々な豪商が誕生しました。

その商売の背景には、東西の水運が発達し、

大量の物資を運べる環境・航路が出来たことにあります。

たとえば、

上記、「紀伊国屋文左衛門」は、当初、

紀州のミカンを江戸に運び、その江戸から塩鮭を大阪や京都などに、

運んで、巨額の利益を得ました。

その得た資金などで、

江戸で木材の需要が多い(火事が多いから)ことに目をつけ、

木材商を始め、さらなる利益を得ます。

さらにその勢いで、幕府に取り入り、とうとう幕府の御用商人まで上りつめます。

最盛期には、長崎貿易も開始、豪商として、

その勢いは天にも昇る勢いかと思われました。

・・しかし、

当初、江戸の家事の多さに目をつけて、商売繁盛のきっかけを

つかんだ紀伊国屋文左衛門でしたが、

なんと、その江戸にある木材置き場が、大火事を起こしてしまい、

結果、これが原因で、皮肉な事に文左衛門は、

商売引退に追い込まれる事となります。

また、同時期、両替商などで莫大な利益を得た上記、「淀屋辰五郎」は、

その豪勢な生活態度を幕府に目をつけられ、

お家はお取り潰しの上、追放処分。

日光東照宮の修復を独占的に任されるほどまで上り詰めた、

「奈良屋茂左衛門」にいたっては、

息子に遺言で、商売には手を出さず、

「この得た財力で、土地を買いそれを貸して、その賃料だけで生活しなさい」と、

遺言を残すなど、存続のため慎重を期しましたが、結果、

家賃収入で、遊んで暮らすだけでは、人が育たず、

五代目の茂左衛門などが、遊郭などで散財し没落します。

その多くの豪商達・商家が没落していく中、

呉服・両替商の三井家や、両替商の溜池家などは、

うまく時代を読んで、代々ながく繁栄したようです。

ちなみに・・・・・

〇その三井高利が三井家の子孫に残した家訓がこちら〇

一、単木は折れやすく、林木は折れ難し。汝等相協戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏固を図れ。

二、各家の営業より生ずる総収入は必ず一定の積み立て金を引去りたる後、はじめてこれを各家に分配すべし。

三、各家の内より一人の年長者を挙げ、老八分としてこれを全体の総理たらしめ、各家主はこの命にしたがうべし。

四、同族は、決して相争う事勿れ。

五、固くしゃし(ぜいたく)を禁ず。

六、名将の下に弱卒なし、賢者能者を登用するに意を用いよ。下に不平怨嗟の声なからしむる様注意すべし。

七、主は凡て一家の事、上下大小の区別無く、これに通暁する事に心掛けるべし。

八、同族の小児は一定の年限内に於いては、番頭、手代の下に労役せしめ、決して主人たるの待遇をなさしめざるべし。

九、商売は見切り時の大切なるを覚悟すべし。

十、長崎に出でて、夷国と商売取引すべし。


元禄の文化

 

元禄文化で、まず特徴的なのは、

町人(支配階級ではない人々)が文化の主導を担った部分です。

その背景には、武士・農民の弱体化があります。

米価値の下落があり、

戦もなく、ぜい沢や出費が増え、そして弱体化していく武士。

お金の流通と、新しい時代の紙幣経済について行けない農民・農家。

この流れで、自然と町人達に財が集まります。

町人達にお金の流れが生まれ、高価な茶器や刀剣などの需要も生まれ、

高価な服を買い求め、休日には、歌舞伎や人形演劇を見る・・・。

このように、その文化の質は、徐々に高まっていきます。

この時の、代表的な人物と言えば、

あの脚本家「近松門左衛門」などが有名です。

歌舞伎役者・「坂田藤十郎」や

人形浄瑠璃界の「竹本義太夫」などと、

手を組んで生み出した作品の数々は、

今でも「最高傑作」と言われています。

 

今回はここまでです

有り難うございました。