歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ⑤ 織田秀信(三法師)~のその後


今回は

織田信長の孫・織田信忠の子

あの武田信玄の血も引く

織田秀信(清洲会議の時の三法師)のその後です

まずはざっくりと織田秀信の生涯とは

 

織田秀信(1580~1605)幼名 三法師

織田信長の孫・織田信忠の子、

本能寺の変で祖父信長・父信忠を失い、

あの有名な清洲会議で「織田家の後継者とされた人物」

その時3歳、織田後継者として

織田信孝や織田信雄などの庇護を受け岐阜城や清洲城に在城

その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田信雄・信孝などが対立して

羽柴秀吉が勝利

さらに秀吉が権力を増していきます。

織田政権の解体と豊臣政権の擁立の複雑な事情の中で

秀吉は信孝と勝家の謀反を理由に、

清州会議の決定を破棄

その結果、秀吉は

織田家家督は、叔父の「織田信雄」とします。

三法師はそのような事情の中

安土城・坂本城など各地を転々とし

その後岐阜城に入城、1988年9歳で元服して

「織田秀信」と名乗ります。

文禄の役では秀吉の朝鮮出兵に従軍

関ヶ原の戦いでは。当初徳川方東軍に属し

石田三成より勧誘を受け西軍に属します。

戦いの結果、

徳川方・東軍が勝利すると失脚・追放。

高野山に送られるが、その高野山からも追放され

1605年その生涯を閉じます 「享年26歳」

さて、ここまでざっくりと書いていきましたが

本能寺の変で消失したはずの

「安土城」があったり

「西軍に鞍替えした理由」など、

順を追ってを書いていきます。

最新の清洲会議の見解は

 

映画の舞台にもなった「清洲会議」(清須)

清洲会議とは

本能寺の変の後の織田家の後継者などを決めるため

羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興

重臣たちが集まった歴史的な会議です

今までの見解では、秀吉が孫の三法師、

柴田勝家は信長三男の神戸信孝を推して・・とされていましたが、

これは江戸時代の創作の可能性があり、

最新の見解では

秀吉が織田信雄・勝家が信孝で対立、

丹羽・池田両名が

内紛を避けるための妥協案として孫の三法師を提案

そして実はすんなりと、後継者は「三法師」と決まったようです。

筆頭家老だった柴田勝家に配慮して織田信孝を「後見」としたのが

最新の見解とされています。

上記にも記載しましたが

その後、秀吉は信孝と勝家の謀反を理由に、清州会議の決定を破棄

秀吉は正式に織田家家督は

叔父の「織田信雄」とします。

すべては消失していなかった「安土城」

 

完成からわずか3年

本能寺の変で消失したはずの「安土城」

本能寺の変で明智軍に占拠され、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いで

羽柴秀吉が勝利すると、

明智軍は安土城より撤退

その時、明智軍が火をかけた、または

残党狩りで火事になったとも、農民の放火とも言われています。

この時によくすべて消失したと思われていますが

実は燃えたのは天守の一部のみだそうです。

その後・・安土城は

清洲会議の後、織田家の象徴の城として

上記、後継者時の三法師(織田秀信)が在城したりしましたが、

秀吉が天下人になると、秀吉の甥の秀次が安土城近くの八幡山に

城を築城、そこに安土城下町も移され、

(その時安土城内の建築物や資材も移されたとされています)

その時に安土城は役目を終え、

わずか築城から9年ほどで「廃城」となります。

元服後の織田秀信

 

元服後の織田秀信は

その時従四位下行侍従に叙位・任官

同じ侍従の官位を持つ大名の中でも5番手で

織田家の家臣だった、前田利家

さらには豊臣秀勝・結城秀康よりも

次席になります。

この時よく、織田秀信は豊臣秀吉の小田原城攻めに参加したとされていますが

最新の見解では、秀信は従軍していないという説が定説のようです

ちなみに、小田原城攻めの後、関東地方へ

移封となった徳川家康の旧領への

移封を拒絶した織田信雄は

改易され、嫡男の織田秀雄が

織田家当主を継いだようです。

文禄の役に当初出陣する予定では無かった

 

豊臣秀勝(秀吉の甥)が没すると、

秀吉はその遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信に与えます

(この時織田秀信は豊臣秀勝の養子として継承したとされています)

済州島で在陣中に没した秀勝が率いていた美濃衆8,000人は、

織田秀信の家老の百々綱家が出陣して、急遽率いることに。

晋州城攻撃計画では、(済州島から)渡海して包囲部隊に編入

1593年秀信は、秀吉のいる肥前名護屋城(佐賀県)に陣中見舞いと称して参陣

この時には羽柴姓も贈られていて、

岐阜中納言として記録があることから

すでに従三位中納言に

昇叙・任官していたようです。

1595年には秀吉が聚楽第に

秀次を訪問した際、兵を率いて

道中の警備を務めた・・。

などの記録が残っているようです。

関ヶ原では何故西軍に?

 

結果は東軍の勝利に終わった関ヶ原の戦い

秀信は関ヶ原の前年から、

準備をしていた模様で

石田三成が奉行職を引退、

佐和山城蟄居を受けて

稲葉山、町口の防備を固めていたようです

最初は、徳川家康の会津征伐に

従軍する予定でしたが、

軍装を整えるのに手間取り出発が遅延。

これは実は形成を見極めるためとも言われています

この間に石田三成から

「戦勝したら美濃・尾張の2ヶ国を」

との条件で勧誘されて西軍に加勢。

美濃・尾張の2ヶ国といえば、

50万石以上の広大な領地

それ以前に、父・織田信忠の旧領でもあったことから、

これには織田家再興の意味もあったようです。

関ヶ原前哨戦、

東軍の元岐阜城城主・池田輝政や

福島正則らによる「岐阜城攻め」で

様々な悪条件の中、奮闘するも敗れ、

秀信は東軍に岐阜城を奪われます。

その後の織田秀信

 

関ヶ原の戦いの後の織田秀信は、

福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したため、

合戦終結後に岐阜13万石は没収されて

高野山へと送られます。

当初、祖父の織田信長が行った高野山攻めもあり

なかなか入山を認められなかったそうです

その後入山を許されても、迫害を受け

1605年5月8日に結局高野山から追放

同年5月27日、向副で生涯を閉じました。

享年26歳

高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としています

この時死因は、自害とも病死とも言われていますが

真相はいかに・・。

余談ですが

 

祖父・信長と同じく派手好みであり、

平素より洒落者だったそうです。

その人柄は堅実で誠実とされ

信長に容貌が酷似していたとする説もあり

関ヶ原の前哨戦(岐阜城攻め)で戦ったときには、

信長を連想とさせる、鎧を着用して出陣したそうです。

その岐阜城攻めの岐阜落城時に敗軍の将ながら

共に戦った家臣全員に感状を書いて渡したという話や、

宗教についても寛大で、自らはキリシタン大名でありながら

寺院の保護も積極的に行っていましたとされています。

武将としての力量を酷評されることもある秀信ですが

敵将として戦った福島正則が

さすが信長の嫡孫也!

と秀信を称えています。

 

 

今回はここまでです

ご愛読有り難う御座いました。