歴史の雑学

ざっくり歴史上その後シリーズ④  ~今川氏真のその後


今回は

歴史上その後シリーズ④~今川氏真(いまがわうじざね)~のその後です

 

今川氏真?と思う方に簡単に人物紹介します

今川氏真って?

今川氏真 いまがわうじざね 1538~1618

駿河国の生まれ

今川氏真はあの織田信長・今川義元で有名な「桶狭間の合戦」の

今川義元の嫡男です。

武田信虎(武田信玄の父)の娘(武田信玄の兄弟)と

東海一の弓取りと言われた今川義元の間に生まれた子で

1554年北条氏康の娘「早川殿」を妻に迎えます

今川家の家督相続者として大事大事にに育てられ

温室育ちのせいか

どちらかといえば武将よりも公家の体質。

蹴鞠や和歌で遊ぶ京都文化の影響が特に強かったそうで

文化人としての方が優秀な人物です

1558年頃(諸説あり)家督・義元の跡を継ぎ、

駿河国の支配強化や経済政策に手腕を発揮

今川氏の場合は、生前相続(家督を譲った後は)

父義元が軍事担当・氏真が政治担当となり

氏真が本国駿河を

父義元がみずから三河・遠江を支配

尾張の織田信長の攻略を開始

着々とその支配を安定させようとしていたが

ここでかの有名な桶狭間の合戦が起こります。

桶狭間の合戦~その後

 

桶狭間で父義元が討ち取られ

それまで人質だった松平元康(後の徳川家康)が岡崎城で独立

松平元康は氏真に、父義元の弔い合戦を進めるが

「氏真はこれを拒否」

元康はこれがわかると、織田と同盟を決意。

今川家はこれで完全に三河を失うことになります

時は激動の戦国時代、

さあこれは今川家としてもこれは窮地。

その時、氏真はいったいなにをしていたか・・

この時氏真は・・

「伊勢物語」や「源氏物語」を読んで 、和歌を作ったり

鶏を戦わせる遊び「闘鶏」をやったりしていました。

「文弱の徒」として氏真は1700を超える歌を残しています。

しかし・・決して氏真は、領民に嫌われていた統治者では無く

駿河の領国経営の方はうまくいっていました。

が・・時代は戦国時代、文化人・政治家として特に優秀な氏真は

その体質が時代が合わず、

「戦国武将」として徐々に人望を失います。

そんな中、とうとう武田信玄が見切りをつけ、

今川家と手を切り、本国駿河に侵攻してきます

氏真は駿府・駿河国を失い、

三河の隣の遠江に逃げ込みました

が、まもなく家康に遠江を攻められ降伏。

氏真はさらに逃亡、

妻・早川殿の父、北条氏康の

相模・小田原城に逃げ込むが

その後氏康から氏政へ代替わりすると

氏真は、立場がなくなり小田原にいられなくなります。

そのような事情もあり、

結局、元人質であり国の一部を奪った家康を頼り三河へ。

これで完全に今川家の地位は無くなります

武将でも守護代でも統治者でもなくなった氏真は

事実上の引退に追い込まれてしまいました。

このとき氏真34歳。

その後の今川氏真

 

さて本題ですね

今川氏真のその後です

かつての人質、家康に庇護された氏真

どのような気持ちで過ごしていたかはさておき、

家康庇護下のもと

1574年(天正3年)親の敵・「織田信長」に謁見し

この時、氏真は信長に家宝の香炉を贈り、

信長の機嫌をとります。

そしてその時、得意の蹴鞠を披露。

信長はそれを退屈そうに見物していたそうです。

そしてその1年後、1575年

徳川家康について、長篠合戦に従軍

(長篠の合戦 織田+徳川 対 武田勝頼)

氏真は後詰めを任され、落ち武者狩りや武田軍の動きがあるところに

放火して回ったりと

結果手柄とは皆無の場所を任されただけのようです。

しかし信長も家康も、ただ邪魔者扱い・・

というわけでは無く

名門今川家の嫡男として

しかるべき地位にとは・・と考えていたようです。

その数月後氏真は

諏訪原城(静岡県島田市)を任されます

これには家康の統治作戦もあり

今川氏真が返り咲くことで

武田家に占領された元本国、駿河の

旧今川家臣団に反乱を起こさせ

武田に抵抗させますが・・・

ここは「文化人氏真」

武将としての働きは皆無。

このチャンスと期待に応えることが出来ず

家康に諦められた形で氏真は

城主を解任され、浜松に呼び戻されます。

ここで「戦国武将としての今川氏真」

歴史から完全に姿を消すことになります。

今川氏真の晩年

 

時は流れ

1590年(天正18年)氏真53歳

豊臣天下の時代

秀吉の命令で家康が江戸に行くことになると

氏真は京都に移住します

この時家康に500石の扶持を与えられ

京都の四条に住んだとされています。

ちなみに1石=10斗=100升=1000合です

当時の米は現代のお金のような扱いです

大体1石=1両の価値

江戸時代前期で

1両=大体10万円くらいとの試算だそうです

この時期に氏真は出家し

名前を今川入道仙巌斎(仙岩斎)とか、宗誾と名乗ります

のんびりと和歌の会に参加したり

文化人たちと交流を深めたりしていた模様です。

さらに時はは流れ、1612年

時代は徳川の天下

駿府で「大御所様」となっていた家康に面会します。

この時、氏真75歳

面会時、家康に

旧知行地である近江国野洲郡(500石)を再び与えられ

さらに品川の屋敷を与えられ江戸に移住、

江戸の品川に屋敷があったことから

氏真は「品川殿」と呼ばれていたようです。

江戸に移住して1年後

氏真は長年連れ添った妻「早川殿」を失います。

戦国時代としては異例ですが二人は大変夫婦仲がよく

「早川殿」も「北条氏康」の娘としてではなく

「今川氏真の夫」として

氏真を長年支え続けたようです。

早川殿を失った氏真はその後急速に老け込み

その次の年1614年

早川殿後を追うように

品川の屋敷で亡くなります

享年77歳

ちなみに氏真はこんな句を残しています

 

なかなかに 世にも人をも

恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして

訳( 世の中も、人も、恨むまい。

「この時代に合っていなかった」ということが、この身の罪なのだから。)

 

最近の研究では、今川氏真は1人の人間として

見直され「暗君」としての評価も

少しづつ変わってきているようです。

 

それではまた次回。