その他の雑学

江戸の職人のはじまり


今回は、江戸の職人の歴史や成り立ちについて、

ざっくりと記載していきます。

江戸の職人そのなりたちとは

「江戸の職人」は、

江戸時代の中期から後期にかけての、

武士中心の世の中から、町人中心の世の中へと、

生活や経済が移り変わっていった時代、

その多様な町人文化が生まれたことがきっかけで、

その多くが誕生したといわれています。

生活用品や工芸品、丹念な仕事で生み出されていった、

その道具たちは、今の時代も愛好者が多いほど。

その江戸職人たちの成り立ちは、まず

徳川家康が江戸城を築城・江戸の町を開発した時、

全国各地から、色んな職人が、江戸にやってきます。

当初、この職人たちは、各業種の同業者同士で固まって、

同じ地域に住んでいたそうです。

各業種の親方は国役請負人に

 

そのうち、幕府は、

この各業種の親方を、国役請負人に任命し、

一町(約1万平方メートル(100m×100m))の土地と屋敷を与え、

各業職人たちは、それぞれの親方の

屋敷周りに住むという構図が出来ます。

職人たちはそれぞれの職業の名前を町に名付けます。

「大工町」「鍛治町」・・といった具合です。

ちなみにこの国役は、土地・屋敷の見返りに

1年の間に一定数の御用(無料奉仕)を務める

というものです。江戸の町などの開発が落ちつくと、

次第に、幕府にお金(税金)を払って、

この無料奉仕の代わりとする制度へと代わっていったようです。

また、その技術の発展・時代とともに、

職人たちは、一か所に集まって住む必要もなくなり、

火事などの災害も考慮して、バラバラに住むようになり、

その町名だけが当時の名残として、現代にも残っています。

江戸の職人の稼ぎはどれくらい?

 

江戸の職人の稼ぎの仕組みの大半は、

出稼ぎのような形で、「手間取り」と呼ばれていたようです。

日当〇円という形で、雇われていたようです。

当初その手間賃(報酬額)は、雇い主と、請け負う側の、

話し合いで決められていましたが、

その手間賃が、あの明暦の大火などの、

大規模災害時などでは、大工などは特に引っぱりだこで、

その相場が急激に高騰することもあり、

混乱が起き、災害時の復興が遅れることから、

幕府はそのうち、大工などの職人は一日銀三匁(5000円くらい)

木挽(木材を加工するなどは)銀二匁(3500円くらい)を

上限とする法を定めました。

今回は以上です

江戸の職人には

様々な種類の技や職種があります

機会がありましたら紹介していきます

有り難う御座いました。