その他の雑学

知ってるようで詳しく知らない日本の神々をざっくり紹介していく①


今回は、

名前は、聞いたことあるけど、

詳しくは知らない、かもしれない、

日本の神々をざっくりと参考までに紹介していきます。

お稲荷さま(おいなり)

別名 稲荷神・うかのみたまのかみ(宇迦之御魂神)

ざっくり、稲の精霊を神格化した神です。

うか=食(食物)のことで、五穀や食物をつかさどる神として、

一般的には「おいなりさん」と呼ばれています。

古事記では、スサオノとオオイチヒの間に生まれた子供とされていて、

日本書紀では、イザナミ・イザナギの神が飢えを感じて、生んだ食物神とされています。

その、うかのみたまのかみ(宇迦之御魂神)が、

なぜ、= 稲荷神なのか、

稲荷神は、もともとは、渡来系の「秦(はた)氏」が自分たちの氏神としてまつっていた、

農耕の神・穀霊神でした。

秦氏は、当時山城国(京都)一帯に住んでいて、

その後、奈良時代にはこの地域で、稲荷信仰が始まります。

稲荷大社社伝には、711年に稲荷神が、

現在の伏見稲荷大社(稲佐山三ヶ峰)に鎮座したとあります。

稲荷=稲生えると言うように、稲荷神=食物神です。

うかのみたまのかみ(宇迦之御魂神)と、同じ性格と一致したことから、

稲荷信仰が拡大していった過程で、古くから信仰のある、

うかのみたまのかみ(宇迦之御魂神)と結びついて考えられるように

なったとされています。

そのうち中世になると、農耕→工業中心への社会情勢の変化のなか、

稲荷信仰は、現世利益の思想を取り入れ、その時の人々の欲求に

対応してきた結果、急速に進行が広まり、現在至ります。

八幡様(はちまん)

別名 ホンダワケ命(ほんだわけのみこと)・応神天皇など

八幡様は、当初北九州に生まれ、文武両道の神様として、

親しまれてきましたが、

その時代・土地・土着信仰に合わせ、それを吸収しながら、

国家の神様へと発展し日本全国に拡大浸透、

後の源氏の守護神としても知られており、

武士の神様としてさらに人気が拡大し、

そののち、時代とともに、庶民の守護神となりました。

ちなみに

応神天皇(ほんだわけの命)は、歴史上実在した最初の天皇とも言われています。

古事記によれば、応神天皇は北九州で生まれ、大和にもどり、

母の神功皇后の摂政・皇太子となり、皇后の死後、

15代天皇に即位し、大陸の進んだ文明を積極的に導入したりなど、

優れた政治・治世を行ったとされ、死後「応神」の名を贈られ、

後に八幡信仰の祭神とされています。

文武両道だった、ほんだわけの命が、大和朝廷の発展・拡大期の背景

もあり、八幡神と結びついたと考えられています。

天神様(てんじん)

別名 菅原道真 天満天神

学問の神様として有名な天神様は、

恨みを残して、非業の死を遂げた怨霊から始まります。

英雄の怨霊信仰は日本人が好む傾向があり、

優秀な政治家・文人の菅原道真の生前の業績などと、結び付けられ

恨みを晴らし、怨霊がついには神様となった経緯があります。

菅原道真は、学者の家に生まれ、その才能をいかんなく発揮、

右大臣まで出世しますが、異例のスピード出世は、

周りの反感を買い、でっちあげの告発により、都を追放されます。

大宰府に左遷された、道真は2年後無念の死を遂げます。

都では、道真の死後天変地異が続き、でっちあげの関係者が

次々に病死、さらに宮廷に落雷が落ち死傷者が出たことが

決定的となり、原因は道真の怨霊とされます。

京都北野の地主神の火雷天神と道真の怨霊が

結びついたとされ、それを鎮めるため、北野の地に北野天満宮が建てられます。

怨霊を鎮めるため、怨霊(御霊(ごりょう))を神にまつることを

「御霊信仰」と言います。

ちなみに、道真が都を去るときに、詠んだ句で、

東風こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」

(東風が吹いたなら妙なる香りを起こして届けてくれ。 梅の花よ主人がいなくなったからといって春を忘れるな)

という有名な句があり、一夜にして京都から九州の大宰府まで飛んできたという、

「飛び梅」の話などの有名なエピソードがあります。

大宰府、道真の墓所に、後に弟子によって、太宰府天満宮が建てられました。

 

今回のご紹介はここまでとなります

ご愛読有難う御座いました。