今回は
前回の意外と知らない時代をざっくり解説・⑩ 江戸時代(中期①)~赤穂浪士の討ち入りと元禄文化」を少し視点を変えてざっくり解説
の続きとなります。
意外と「知らない時代」をざっくり解説シリーズ。
よくご存じかもしれない時代ですが、
人気の「江戸時代」の中でも、
中期(1700年前後~1800年前後頃)の時代の
第2回として、「暴れん坊将軍がやった改革とは?」を
少しだけ違う視点でざっくり書いていきます。
国庫がすでにつきていた幕府
8代将軍吉宗の時代あたりの
幕府の国庫は底を付いている状態でした。
5代将軍綱吉の浪費や明暦の大火、
その綱吉の政治を正そうとした(正徳の治=生類憐れみの令の廃止など)
6代将軍家宣も、在職わずか3前半で亡くなります。
それを引き継いだ、7代将軍家継ですが、
歴代将軍の中でも4歳という最年少の将軍就任で、
在職期間は3年、8歳で亡くなります。
家宣の直系はここで途絶え、御三家の紀州藩から、
吉宗が8代目の将軍に選ばれます。
吉宗は初代家康の10男・頼信の系統になります。
男子の平均身長が160センチのこの時代に
吉宗は身長180センチ、色黒で耳がとても長かったそうです。
![](https://samurai29.xsrv.jp/wp-content/uploads/2021/02/0e13625e5c2f29070b283e08a3352cc8.png)
徹底的な財政改革・享保の改革の中身
吉宗の「享保の改革」とは、
実際に何をしたのか。
その大きな目的は「財政再建」です。
まずは、年貢を納める率を一定にします。
これまでは、検見法といい、毎年の米の出来柄などで決まっていた年貢率を
一定にします。=「定免法」
また、今まで税率が低く抑えられていた畑や、
無税だった河川敷などの土地にも課税します。
税収は安定しますが、凶作でも税率は変わらないので、農民にしてみれば
これは大変な負担だったようです。
![](https://samurai29.xsrv.jp/wp-content/uploads/2021/02/f81fd2e4c52864042852c112ce927ae2-9.jpg)
その他増収策としては、
「株仲間を公認」して税を納めさせます、
(株仲間=営業上の特権をあたえられた同業者組合)
また諸大名には、参勤交代の在府期間を減らす代わりに、米を上納させます。
支出軽減策としては、
まず「ぜい沢禁止令」を発令します。さらに、
役職に応じて不足する俸禄をプラスして
支給する制度を作ります「足高の制」
これにより、家柄が低いという理由で、
役職に就けることのできない優秀な人材を登用
その人物が、役職を辞めたときには、
プラス分の俸禄は返納という仕組みで経費削減を図ります。
その他の主な政策としては、
庶民の進言の投書を集める目的の「目安箱の設置」
町人のための本格的な消防組織として「町火消を創設」
これは「め組」など「いろは組」で有名です。
銭の貸し借りの訴訟は、
当事者同士で話し合って解決するようにさせた「相対し済し令」
![](https://samurai29.xsrv.jp/wp-content/uploads/2021/02/f81fd2e4c52864042852c112ce927ae2-10.jpg)
また、大きな改革として、
編纂開始から15年半をかけ、法律を1から作り直します。
「公事方御定書」(くじかたおさだめがき、くじがたおさだめがき)
上巻は、警察や行刑に関する基本法令81通、
下巻は、旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録しています。
この享保の改革の結果、
税収は安定、財政自体は再建しますが、
農民疲弊と打ち壊しやいっきの増大も招きました。
目安箱が生んだこと
この吉宗の時代は、疫病・飢きんなどで、
貧困で苦しむ者がとても多く、
医者にもかかれない人が沢山いました。
そこで、町医者の小川氏が、
官立の無料の病院設立のお願いを、目安箱に投函します。
将軍吉宗はこの上書を採用します。
幕府の町屋敷の敷地代から、その費用が捻出され、
現在の、東京都文京区にある、小石川に無料の総合病院が
設立されました。
当初は「病院が無料なわけが無い、ここで人体実験が行われてるんだ!」と、
患者がまったく来ませんでしたが、あの「大岡越前」で有名な
大岡忠相が、町人の代表を集めて、
説明会を行い、誤解を解いたというエピソードがあります。
ちなみに、この目安箱ですが、
ひどい内容を投書すると、お叱りなどの処罰が科せられていした。
![](https://samurai29.xsrv.jp/wp-content/uploads/2021/02/f81fd2e4c52864042852c112ce927ae2-8.jpg)
改革の仕上げに日光社参を復活させた
3代家光によって、公的な儀式となっていた、
「日光社参」を吉宗は復活させます。
初代家康の霊廟に参拝するという儀式です。
これは諸大名を引き連れ大々的に行なわれたので、
「財政面」の理由から、実質的に中止されていました。
この行事を65年ぶりに復活させたのが吉宗となります。
![](https://samurai29.xsrv.jp/wp-content/uploads/2021/02/f81fd2e4c52864042852c112ce927ae2-11.jpg)
1728年、旗本など約13万人・人足など約23万人が、
参加したと言われるこの大規模な行事、
当日は、あいにくの雨と言う理由もありましたが、
スタート地点の江戸城から、先頭から順番に出発して、
最後尾が出発するまでに、なんと10時間もかかったそうです。
その復活の目的は、
享保の改革(財政再建)の成功をアピールする目的、
将軍の威厳を取り戻し、封建制の再構築を目指すことにあります。
実質的に、この行事は、「大規模な軍事動員・演習」と同じで、
幕府軍を総動員して演習させ結束を固め、
外様大名を牽制する狙いもあったようです。
今回はここまです
有り難う御座いました。