歴史の雑学

イスラムの〇〇派って何?イスラム教の歴史とその国々の誕生

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ニュースなどでよく聞く

イスラムの「〇〇」派・・

その、なりたちや歴史を、

ざっくり簡略に書いていきます。

ユダヤ教キリスト教イスラム教は「兄弟」

 

大まかな流れはこうです。

同一の神様が、

時々現れる、超能力をもったような優れた人物に、

神のお告げを伝え、そのお告げを、人々に伝えさせます。

まず最初は「モーゼ」(モーセ)とされ、

この時のお告げをまとめたものが、「旧約聖書」とされます。

モーゼの十戒とは

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

次に選ばれたのが、

イエス・キリスト」です、この時の神のお告げが、

「新約聖書」とされます。(西暦ではキリストの誕生を元年とされる)

しかし、人類はそのキリストを処刑したりと、あまり耳を貸さず、

神様はその言葉を全て伝えきれません。

そこで、その神様に最後の人物として、選ばれたと自称するのが、

ムハマンド」になります。

そこで伝えられた言葉をまとめたとされるものが、

「コーラン」とされます。

なのでイスラム教は〇〇教(キリスト教など)

とは考えの違いから対峙・敵対しますが、

旧約聖書・新約聖書の両方は大事にします。

ムハマンドとはどのような人物?

ムハマンドという人物は、西暦600年頃、

当初東ローマと、貿易商人などをやっていた人物です。

その後、宗教的指導者+アラブ帝国の王となります。

ムハマンドは、

定期的にヒラという名の山の洞窟に、

身を潜め、数日間の祈りの日々を過ごしていたようで、

40歳の時、ムハンマドは洞窟の中でガブリエルの訪問を受け

神からの最初の啓示を受けたとされます。

ムハマンドが育ったメッカは、

この時すでに、周辺アラブ人の「共通の聖地」でした。

アラブの周辺部族は、自分たちの「それぞれの神様」の像などを、

カーバ神殿という場所に集め、祀っていました。

この時ムハマンドは、神のお告げ通りに、(偶像を作ってはならない

この像を全て破壊しろと言い出します。

当然、怒った現地の人々は、ムハマンドを追放・迫害します。

追放されたムハマンドは、メディナという所に移り住み、

西暦622年に本格的な布教を開始。(イスラム教ではこの年が元年とされる)

メディナで、ムハンマドはメディナ憲法の下、

メディナの周辺部族を統一します。

その後、一気に信者が増え、メッカの周辺部族との8年間の断続的な戦いの後、

ムハマンドは教団員1万人からなる軍隊を編成し「メッカを攻める」と言います。

(教団を守るための戦いをジハード(聖戦)と呼びました。)

軍を率いてメッカを攻略、この時カーバの偶像も全て破壊されます。

バラバラだった、アラブ周辺部族をさらにまとめ、統一。

アラブ帝国を建国します。

西暦632年巡礼から戻って数ヶ月後、ムハンマドは病に倒れて亡くなります。

ムハマンドの後継者

 

ムハマンドの死後

アラブ帝国で、後継者の決定が協議されます。

ムハマンドは、幼い息子を亡くしており、

建国したばかりで国がまだまだまとまっておらず、

隣国には、強大なローマ帝国がある現状でした。

そこで、協議の結果。

ムハマンドの妻の父親バクル、

別の妻(多妻制)の父親ウマルなど、

「アラブの長老」たちに、後を継がせる事になりました。

(このムハマンドの後継者の事を「カリフ」と言います。)

当初、この後継者システムは機能し、2代目カリフ・ウマルの時は、

ペルシア・エジプト・シリアなどを征服。

ローマ帝国との戦いにも勝利するなどその勢力を拡大します。

しかし、この時、アラブ帝国はシリアを統合していたので、

そのローマとの戦いの最前線はシリアとなります。

最前線であるこの地に、常に軍隊を配置していなければならず、

その軍隊の指揮を任されたのが「ウマイヤ家」となります。

ウマイヤ家の台頭

軍を掌握している

ウマイヤ家は、ムハマンドの一族(ハシーム家)よりも、力を持つようになり、

結果、後継者候補が、ウマイヤ家からも出るようになります。

そして問題が起きたのは、4代目カリフ決定の時で、

ハシーム家・ウマイヤ家どちらからカリフを出すのか、

意見が大きく割れるようになり、選挙の開催に発展します。

そしてその選挙の結果・・

ハシーム家のアリーという人が、カリフに選ばれます。

アリーは、ムハマンドの娘婿でもあります。

事態の収拾を図るべく、四代目アリーは

このウマイヤ家・ハシーム家の関係融和と改善を図ります。

しかし、この関係融和方針に反対のアリーの支持者の過激派が暴走。

アリーはなんと暗殺されてしまうのです。

そうした疑惑や混乱の中、

5代目カリフにはウマイヤ家から、ムアーウィアという人物が選ばれ、

これ以上の後継者争いを避けるとの名目で、

今後カリフは、「ウマイヤ家からのみ選出する」と宣言します。

こうして始まったのが、ウマイヤ朝とされます。

泥沼化する争いと「シーア派」の誕生

当然ですが、ハシーム家は黙っていません。

「打倒ウマイヤ朝」の動きが出てきます。

暗殺されたアリーの息子フサインと言う人が発起。

ついに内戦へと発展します。

しかし結果、現状の後継者で、そして力のある、

ウマイヤ家から強い弾圧をうけます。

一族は、その弾圧から逃れながら、

「私たちが真のムハマンドの後継者だ」と訴え続けます。

この一族の支持者のことを、「シーア派」と言います。

シーア派は独自に指導者の呼称を作り、「イマーム」とします、

特徴として、その血縁を重視し、

ムハマンドの直系一族しか神の言葉を聞く力を有しないと言う考え方で、

12代目まで直系子孫が続きます。

シーア派の中では、「初代イマーム」が「4代目カリフのアリー」と言う事になります。

「スンナ派」の誕生

 

これに対し、決定した、全てのカリフを認めるとする多数派の人々が、

スンナ派」と言います。

スンナとは、「慣習」と言った意味で、

特徴としては、

コーランの教えや慣習に正しく従えば、

誰でもカリフになれると言う考えです。

このスンナ派にしてみれば、シーア派のイマーム=反乱者と言う事になりますので、

ここから先の歴史で、多数派のスンナ派は、

少数派のシーア派を絶えず迫害・弾圧し続けます。

枝分かれする〇〇派

 

シーア派の7代目イマームのイスマイルと言う人物がいました。

若くして亡くなったとされていますが、

これを実は死んでいないとする噂が多々流れます。

スンナ派の迫害が日々ひどくなる中、

亡くなったという事にして、

どこかに匿われてると言うのです。

このイスマイルを救世主として、スンナ派打倒を目指す派閥が生まれます。

これが「イスマイル派」の誕生とされます。

しかし、シーア派の中では、

実際に亡くなったとされる方が多数派で、

イスマイルの弟を8代目イマームとします。

このような背景の中で、1つ不思議な出来事がおこります。

11代目イマームのお葬式の時、どこからともなく少年が姿を現し、

「11代目イマームの葬式は後継者である私がやる」と言います。

そして葬儀が終わると、不思議とそのままいなくなってしまい、

誰もその後、その姿を見た物がいないことから、この少年は、

「迫害から身を守るためにお隠れになったんだ」と信じられるようになります。

そして、この少年を正式に12代目イマームとし、

この「十二代目イマーム」は「救世主」とされ、

現代においても、「最高指導者」となります。

この時から、シーア派の主流を「12イマーム派」と呼ぶようになります。

こうしてイスラム圏の様々な国家が生まれた

 

この後の歴史の中で、

度々この「12代目イマームの代理」と言う人物が現れては

革命運動を起こします。

欧米化を進めていた、国王に代わり、

シーア派の法学者のホメイニが政権を取り、

「私は十二代目イマームの代理人だ」と宣言。

西暦1979年のこのイラン革命運動で生まれたのが、

現代のイラン・イスラム共和国となります。

イランは、選挙で選ばれた大統領の上に、

シーア派の聖職者が最高指導者として存在する、

国家システムとなります。

よく聞くイスラム原理主義のはじまりとは?

 

イスラム原理主義、

まず、背景にはトルコオスマンのアラブへの侵攻があります。

オスマンは当初遊牧民族で、傭兵として、アラブ各国へ浸透していき、

次第に力を増し、その強大な軍事力で勢力を拡大。

現在のトルコ共和国(アナトリア)を支配し、オスマン帝国を建国、

そして、バクダード占領、これを支配します。

歴代のトルコオスマン政権は、征服したアラブのカリフを尊重し、

カリフから、王を指名する形を取っていましたが、

その後、オスマン帝国は東ローマ帝国を滅ぼし、

さらにはエジプトまでも支配し、オスマンは一大帝国となります。

この時エジプトで保護されていた、最後のカリフを連行し幽閉します。

その後、オスマン皇帝が、国王(皇帝)と

カリフ(最高指導者)を兼任する形になります。

アラビア半島にて、オスマン帝国がその支配を強めると、

トルコ人(オスマン帝国)の侵攻・支配

アラブ人以外の人間がカリフを名乗る事などに、

「スンナ派のアラブ人の反発」が生まれます。

「ワッハーブ」(コーランの専門家と言う意味)運動がおこります。

この状態を打破するためには、もう一度

コーランの基本に戻って、

アラビアを再統一しようという考えです。

スンナ派の中でも最も厳格で過激派とされる

ワッハーブ派の誕生です。(あのアルカイダもワッハーブ派です)

しかしこの時、アラビア半島では混乱が起こっており、

周辺の沢山の派閥や部族や考え方が、戦う状態となっていました。

ワッハーブ派は、この混乱を治め、そして統一するべく、

豪族の「サウード家」が中心となり、政治+宗教の国家を

建国しようとします。

ムハマンドの時と同じ状態=これは聖戦(ジハード)だ

逆らう物はすべて容赦しないとし、激しい宗教戦争を開始します。

コーランやイスラム法に基づいて国家や社会を統制して、

違う思想、トルコ人などが持ち込んだ文化など全てを

異端として弾圧します。

もしろんシーア派に対しても容赦はしない考えです。

この考えがイスラム原理主義となり、

そして「サウード家のアラビア」=「サウジアラビア」という意味で、

現在のサウジアラビアという国家の起源となります。

 

今回はここまでです

有り難うございました。