歴史の雑学

意外と知らない時代をざっくり解説 ④ ~奈良時代

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今回は前回の続き

意外と知らない時代をざっくり ④ 「奈良時代」を書いていきます

一般的には

710年に元明天皇(661~721)によって平城京に遷都してから、

794年に桓武天皇(737~806)によって

平安京に都が遷されるまでの84年間の時代区分になります。

奈良時代と言えばまず

国際的に初めて「日本」という国、国号を認めさせた時代です

そして

「古事記」「日本書紀」「万葉集」

など現存最古の史書が登場したのもこの時代です。

遣唐使復活と唐の混乱

 

白村江の戦いから30年

日本が遣唐使を復活したのは702年のことになります。

前回書きました(意外と知らない時代をざっくり ③ 飛鳥時代)

の後半にも記載しましたが文武天皇(683~707)

が「大宝律令」を発布した翌年のことになります。

その頃・・大陸の

「唐」では、則天武后(624~705)が

病弱だった夫に代わり

政治を行ったことから官僚らの信任を得て

息子の中宗らが皇帝になるとそのまま傀儡とし、

愛人である薛懐疑と言う僧侶らと画策して政変を起こします。

そして、自ら皇帝を名乗り国号を一時的に「周」とします。

後に則天武后の死によって息子の中宗が復位し

この後すぐに「唐」は復活しますが、

則天武后が皇帝に即位したこの時の混乱に乗じて、

現在の満州と言われる地域で

大祚栄(?~719)と言う人物が

かつて、唐と新羅の連合言に滅ぼされた「高句麗」

の復活運動を起こします

則天武后は慌てて軍を派遣しますが

大祚栄はこれを撃退し「震」という国を建国します。

これは、事実上の高句麗復活となり、

この国周辺や国のことを「渤海(ぼっかい)」とも呼びます。

この渤海は、後に200年以上にわたり日本に

朝貢を続けることとなります。

日本の国号問題

 

高句麗独立問題で則天武后政権が

が混乱していた、まさにこのタイミングで

日本は遣唐使を復活させています。

遣唐使一行は、長安の都に着き則天武后の接見を受けます

しかしこの時、唐がさらに混乱する事態が起こります。

なんと提出した国書に従来の「倭国」との明記がなく

「日本」という国号が記載してあります

唐側からすると、「倭国の使者を迎えた」つもりが

遣唐使一行は「日本」からの使者だと言うのです。

高句麗復活・独立問題で、それどころではない

則天武后は、この国号問題を解決しないまま

「日本」と国交を再開します。これは、

事実上「日本」という国号を認めたことになり

国際的にこの国号が使われた最初の出来事

となります。

大宝律令とは

 

奈良時代の日本は

平城京への遷都に先立って施行された「大宝律令」に

様々な変更や改良を加え、天皇中心の中央集権を目指します。

その時の実情・国情に合うように様々な工夫や

政治が行われた時代でもあります。

具体的に「大宝律令」とは

政治を行う役所を整備

政治は天皇と貴族で運営する形を主として

二官八省の官僚機構骨組みとした、中央集権統治体制です

刑法にあたる6巻の「律(りつ)」

現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」

などがあります。

また地方官制は、

全国を、「国」(2郡以上の広さ)・「郡」(2~20里)・「里」(50戸)に分けて、

「国には国司」を「郡には郡司」を「里に里町」を置きます

主に国は貴族が統治し郡は豪族と言ったような統治制度です。

また、6年ごとに戸籍を作り6歳以上の男女に土地を分け与える

班田収授法なども制定されます。

簡単に言うと国から畑を貸し与えて対象者が死亡したら

国に畑を返す制度で、与えられた田畑には

その収穫から税(米など収穫量の3%)

を納める税制度がセットでついてきます、

これが「祖」という税制度です

また労役の代わりに布を納める「庸」

朝廷に糸や布、特産物を献上する「調」

などが主な税制度となります。

平城京へ遷都

 

平城京の遷都には

中臣鎌足の子、藤原不比等(659~720)が大きく関わっています

藤原不比等は「日本書紀」の実質的な実質の編集者でもあり

律令制度の確立に力を尽くすとともに、

皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかため、これが

後の藤原家の繁栄につながります。

前の都の藤原宮は、遣唐使再開以前に立てられ作りも古く

排水問題などもあり、大宝律令などの完成のタイミングで

都を移す(遷都)する事となったようです。

平城京は唐の長安の都を模したと言われていますので

その当時最先端の広大な都でした。

前都の藤原京から移築した寺なども多くあり

総面積は2500ヘクタール

その総人口は約10万人とされています。

天平文化

 

当時の皇族や貴族は、遣唐使によってもたらされた

唐の文化を積極的に取り入れました。

また、政治安定などの目的で全国に寺を建て、

仏教的な文化を広げていきます。

その総本山と位置づけられる国分寺・国分尼寺の

統括と言えるお寺が、(総国分寺、総国分尼寺)

東大寺、法華寺となります。

かの有名な、東大寺の大仏は、鎮護国家の象徴として建立されました。

この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、

人々より篤く崇敬されていた、行基(668~749)を

大僧正として迎える事となり、

この最高位である大僧正の位は行基が日本で最初となります。

何故この時、政治的安定を求めたのか・・。

大仏や国分寺などの建設は、

この当時、畿内で起こった大地震や天然痘の流行

国内の内乱、そして大飢饉などが

起こったといった背景もあるようです。

この事から、農民たちは、税を納められず

貸し与えた土地から逃げ出す農民が続出してしまいます。

ここで、政府は農民の流出を防ぐため

貸し出した土地を死亡したら国に返すのではなく、

(この時は723年に出された三世一身法3代までの私財化が認められていた)

永久に土地の私財化を認める政策に打って出ます

これが「墾田永年私財法」となります。

が、その実情は、土地の永久所有を認められたことで

貴族や寺が、逃亡してきた農民を利用して、

自分の土地を開墾させたり広げたりする結果となります

そのような、私有地・土地の事を「荘園」と言い

奈良時代~のこの出来事が、

歴史上での初期荘園の形と言われることがあります。

そして、この「荘園」という形が、

後の時代への歴史に

つながっていく事になります。

 

今回は以上です

次回需要がありましたら~平安時代を書いていきます

ご愛読有り難う御座いました