江戸時代後期の京の儒医である橘南谿は、
江戸時代当時の日本の諸地方を旅行して、
現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して
1780年代に「東西遊記」を出板しました。
妖怪の原型・始まりともいわれる、
今回はその中のいくつかのエピソードを紹介します、
少し読みやすくするため、
ある程度独自の解釈をして記載していきます。
鎌倉
鎌倉は、東武通行の要所で、珍しくは無いが、
改めてこの土地で遊べば、昔のおもかげ、
山川別にしても、古代の仏閣神社などが、沢山残っていて、
懐古の情にたえない。
中略(当時の八幡宮・頼朝の塚の紹介など)
しかしながら、江戸・京都のように大きな城下町があるわけでも無く、
45万石の大名の城下町ほどでは無いようにに思われる。
高山も無く、大河も無く要害の地とは言えない。
小さな山々が、四方に連なっていて平地はほとんど無い。
昔、鎌足公が、鹿島参拝の時、由比が浜に泊まった時に、
夜、霊夢によりて、秘蔵されていた鎌を、
大蔵山の松岡で埋み拾う。
この事から、鎌倉郡というようになり、大蔵山も鎌倉山に
名称が変わった。この地は、なぜか古跡・神社仏閣がとても多く、
謎や旧記も多く、ずっと留まっていたいものだ。
また、源頼朝も源氏代々のゆかりある地として、
ここを都にしたのだろうか?
幸の神(山形)
出羽あつみの駅のあたりの、街道の両方に、
岩があるところには、必ずしめ縄が張ってあり、
木の細工で、男性器の形を作り、
道の方にむけて、出してある。
あまりにもけしからぬ物だったので、地元人に尋ねてみた。
すると、「これは古代から、幸の神と名付けて毎年正月15日に
新しく作りかえている、けっしてふざけているわけでは無い」
と言う、さらにそれは何故かと尋ねると、
「このあたりの女性が良い男性と巡りあう祈りのため、それをひそかに結ぶため」
と言う。まさに辺国古風の事也。
このような日本の古来からの祭りなどは、
日本書紀の神代の巻にも陰門の形の石を神代にして・・
などの記述も多くみられたが、
神道の秘術・秘事につながるのではないかと思う。
大骨(岩手)
私が奥州で旅をしていた頃
南部の宮古近辺の海岸に、暴雨風雨の翌日
人の足の長さほどの、肉はただれて見える物が、流れ着いた
魚類の類いかと思ったが、どうやら人の足のようだった。
ただどうゆうわけか、それはとても大きく、
このあたりの人々は、驚き怪しんだ。
聞いて考えるに、これは南半田村の大骨という、
氏神にも祭られる神体ではないか?
私は。古塚などのご神体で、氏神などに祀られるものに
大きな頭蓋骨などもある事を思い出した。
考えるに(南谿の考察)外国にパタゴニアとゆう国があり
俗にいう、大人の国であり、
その足跡は、人間らしくない大きさであるという、
大骨や大きな頭蓋は、漂流した外国人ではないか?
また北方には、身の丈3尺に満たないとゆう
小人の国もあるという。
日本はいまだに、外国へ海の通路が開けていないため。
仔細は明らかではないが、近い未来、海路が開ければ
大人の国なども、一般的にも知られる事になるだろう。
今回はここまでです
また気が向いたら続きを書きます
ご愛読有難うございます。