赤松小三郎 明治より先に「日本の未来図」を描いて消された男

幕末の有名人といえば、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、吉田松陰あたりの名前がよく出てきます。
でも歴史には、そこまで有名ではないのに、掘ってみると「この人がもっと長く生きていたら、日本の形が変わっていたかもしれない」と思える人物がいます。
その一人が、赤松小三郎です。
幕末に現れた、知られざる実務家
赤松小三郎は、信濃国上田、現在の長野県上田市に生まれた幕末の洋学者であり、兵学者です。
天保2年、1831年に上田藩士の家に生まれ、江戸で数学、測量、天文、蘭学などを学びました。
さらに勝海舟に従って、長崎海軍伝習所でも学んでいます。
つまり赤松小三郎は、ただ理想を語るだけの人物ではありませんでした。
当時の最先端の知識を、実際に学び、現場で使おうとしていた実務型の人物だったのです。
戦う知識を学びながら、戦わない国づくりを考えた
赤松小三郎のおもしろさは、西洋式の軍事を学びながら、最後には「戦わずに国を変える道」を考えたところにあります。
彼は西洋式の兵学を学び、『英国歩兵練法』という歩兵訓練の本を翻訳しました。
この本によって赤松小三郎の名は知られるようになり、京都では私塾を開き、薩摩藩や会津藩でも兵学を教えています。
門下には、のちの桐野利秋や東郷平八郎などもいました。
ここだけ見ると、赤松小三郎は「西洋式軍事を教えた人」に見えます。
しかし、本当に注目したいのはその先です。
誰が勝つかではなく、勝った後の国を考えた
慶応3年、1867年。
赤松小三郎は、松平春嶽や島津久光に向けて、国の仕組みを変えるための建白書を出しました。
いわゆる「建白七策」です。
そこでは、朝廷、幕府、諸藩が争うのではなく、一体となって国を動かすこと。
そして、政治を話し合う場として議政局を設けることが構想されていました。
分かりやすく言えば、赤松小三郎は、武力で勝った側が国を支配するのではなく、制度を作って国を動かそうとしていました。
これは、幕末という時代を考えると、かなり早い発想です。
多くの人が「倒す」「守る」「戦う」に向かっていた時代に、彼は「仕組みを作る」ことを考えていたのです。
理想家ではなく、現実を見すぎた人
赤松小三郎は、ただ理想だけを語った人ではありません。
兵学を知っていました。
軍事の現実も知っていました。
藩の財政や人材登用の問題にも目を向けていました。
文久3年、1863年には、上田藩に対して藩政改革や軍制改革の意見書を出しています。
慶応2年、1866年には、幕府に対して、長州再征に勝算がないことや、家柄にとらわれない人材登用、陸海軍改革の必要性を説いています。
つまり赤松小三郎は、夢だけを見ていた人ではありません。
むしろ、現実を見すぎた人です。
現実を見たからこそ、「このまま力でぶつかれば危ない」と考えた。
現実を見たからこそ、「古い身分や家柄だけで人を選んでいては国がもたない」と考えた。
現実を見たからこそ、「戦う前に、国を運営する仕組みを作らなければいけない」と考えたのです。
現代にも通じる、赤松小三郎の視点
ここに、現代にも通じる大きな学びがあります。
会社でも、組織でも、国でも、うまくいかなくなる時は、たいてい「誰が正しいか」の争いになります。
でも本当に必要なのは、誰が勝つかではありません。
勝った後に、どう運営するかです。
声の大きい人が勝つ組織は、長く続きません。
感情で動く組織は、一時的に勢いが出ても、あとで疲弊します。
本当に強い組織は、仕組みで動きます。
赤松小三郎は、幕末という刀と銃の時代に、そのことを見ていた人物だったのかもしれません。
大政奉還の直前に消された男
しかし、赤松小三郎の人生はあまりにも短く終わります。
慶応3年9月3日。
赤松小三郎は京都で薩摩藩士の桐野利秋らに襲われ、暗殺されました。
数え年37歳でした。
大政奉還の直前のことです。
皮肉なことに、赤松小三郎は薩摩藩にも兵学を教えていました。
薩摩藩から重用され、『重訂英国歩兵練法』も薩摩藩から出版されています。
つまり、まったく無関係の敵に殺されたわけではありません。
近い場所にいた人たちの政治的な渦の中で、彼は消えていったのです。
明治維新の見方が少し変わる
赤松小三郎は、歴史の主役として語られることは多くありません。
けれど、彼を知ると、幕末の見方が少し変わります。
明治維新は、ただ英雄たちが日本を新しくした物語ではありません。
その裏には、別の未来を考えた人がいました。
戦う道ではなく、話し合う道を考えた人がいました。
勝者が国を作るのではなく、制度によって国を作ろうとした人がいました。
その一人が、赤松小三郎です。
もし彼が生きていたら、日本はどうなっていたのか
赤松小三郎がもっと長く生きていたら、日本はどうなっていたのか。
もちろん、それは分かりません。
歴史に「もし」はありません。
ただ、少なくとも言えることがあります。
赤松小三郎は、時代の空気に流されず、かなり早い段階で「これからの国の形」を考えていた人物でした。
それは、現代の私たちにも通じる視点です。
混乱している時ほど、感情ではなく設計図を持つこと。
対立が強まる時ほど、勝ち負けではなく仕組みを考えること。
目の前の争いに勝つより、次の時代が壊れない形を考えること。
これからもっと知られていい人物
赤松小三郎は、派手な英雄ではありません。
でも、こういう人物こそ、これからもっと知られていい。
歴史の中には、勝った人の名前だけが残りやすいものです。
けれど本当に大事なのは、勝つことよりも、勝った後に何を作ろうとしたかです。
赤松小三郎は、幕末のど真ん中で、その答えを探していた人でした。








