征夷大将軍という言葉を聞くと、源頼朝や徳川家康を思い浮かべる方が多いかもしれません。ただ、もともとの征夷大将軍は、東北の遠征を指揮するために、その都度任命された軍事司令官でした。いわば、任務が終われば解かれる臨時の最高指揮官です。

その初期の代表格として名前が挙がるのが、大伴弟麻呂(おおともの おとまろ)です。史料上、早い時期に征夷大将軍として確認できる人物として語られます。後に名高い坂上田村麻呂より先に、その肩書きが前面に出てくる点が面白いところです。


大伴弟麻呂は何を任されたのか

大伴弟麻呂が征夷大将軍に任じられたのは延暦13年(794年)正月とされます。桓武天皇から節刀を賜り、胆沢方面への遠征に向かいました。節刀は、天皇の名のもとに軍を動かす権限を示すしるしです。

ここで大切なのは、大伴弟麻呂が全体の総大将である一方、実戦部隊の総指揮という現場の中核を担った人物として坂上田村麻呂が動いていた点です。遠征は一人の英雄譚ではなく、組織戦です。大伴弟麻呂は全体を束ねる立場で戦線を支え、坂上田村麻呂は前線で戦果を積み上げていく。役割分担があったからこそ、遠征は前に進みます。

坂上田村麻呂との関係
先に任じられた大伴弟麻呂、現場で伸びた坂上田村麻呂

坂上田村麻呂は、最初から征夷大将軍だったわけではありません。大伴弟麻呂の遠征に副将として参加し、成果を挙げた人物として知られます。そして延暦16年(797年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、蝦夷征討の主役が坂上田村麻呂へ移っていく流れが見えてきます。

その後、802年に胆沢城の造営が進み、阿弖流為らの降伏が語られる局面へつながります。803年には志波城の造営が進み、軍事行動が拠点整備と行政へ移っていく道筋が強くなります。

大伴弟麻呂は、制度としての征夷大将軍を動かし始めた側の人です。坂上田村麻呂は、その制度を実戦と拠点づくりで前へ進めた側の人です。二人は対立するというより、同じ時代の同じ事業を、別の立場から成立させた関係だと読むと、大伴弟麻呂の存在感が立ち上がってきます。

その時代の日本
794年が持つ意味

794年は平安京遷都の年です。都をつくり直す事業は、政治の中心を作り替える巨大プロジェクトでした。一方で東北では遠征が進みます。内側では統治の骨格を組み替え、外側では支配の届く範囲を押し広げる。桓武朝は、国の形そのものを整え直す局面にありました。

この頃の征夷大将軍は、後世の幕府将軍とは性格が違います。世襲の最高権力者ではなく、目的のために任じられ、任務が終われば解かれる役職でした。だからこそ、大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の関係は、権力継承というより、遠征事業の段階移行として見るほうが腑に落ちます。

同じころ世界では
794年前後のざっくり時代感

日本が都を移し、東北へ軍を進めていた頃、世界でも転換を感じさせる動きが重なります。

ヨーロッパでは793年、リンディスファーン修道院の襲撃が起こり、のちにヴァイキング時代の象徴的な出来事として語られます。西ヨーロッパではフランク王国のカール大帝が勢力を広げ、800年にローマ皇帝として戴冠します。

イスラーム世界ではアッバース朝のハールーン アッラシードの時代で、バグダードが繁栄の中心として知られます。中国では唐の徳宗の時代で、長期政権の中で国家運営の課題と向き合う局面が続きます。

日本だけが特別に動いていたわけではなく、各地で秩序の組み替えや拡張の試みが同時進行していた。そう見立てると、平安京と東北遠征が同じ年に重なることも、時代の流れとして自然に見えてきます。

まとめとして
初代の名が地味に見える理由

大伴弟麻呂は、坂上田村麻呂ほど物語にされにくい人物です。ただ、史料上早い段階で征夷大将軍として確認でき、遠征の枠組みを実際に動かした総大将でもあります。坂上田村麻呂が前面に出て拠点整備へ進む前提には、大伴弟麻呂の任命と出陣がありました。

初代なのに目立ちにくいのは、勝利の派手さより、仕組みを動かす側の仕事が中心だったからかもしれません。大伴弟麻呂をそういう視点で読むと、坂上田村麻呂の英雄譚の輪郭も、より立体的に見えてくるはずです。

ここまで読んで頂きありがとうございました。

よい1日になりますように。